「子持ち様が迷惑」と言える時代は終わる

だが、はっきり述べておくが「『子持ち様』が私たちにまた自分勝手な迷惑をかけて……」といった申し立てによって共感が集められていた時代は、もうすぐ終わりを迎える。

ご存知のとおり、2020年代から出生数は急激にその減少ペースが速まり、2023年は過去最少となる76万人足らずとなった。改めて見ると恐ろしい数字だ。2023年生まれの子どもたちの同学年は全国に80万人もいないのだと書くと、そのインパクトの大きさを感じられる。

いずれにしても、猛烈な速度で少子化が進行する時代においては、「子ども」のプレミアは相対的にますます上昇することになる。なおかつ、子どもを産み育てている人の「社会貢献」の度合い(道徳的優位性)もそれにともなって大幅に改善していくことは確実だ。

「子持ち様が子どもの熱だか卒業式だか知らないけど、すぐ休んで私たちに仕事を押し付けていてズルい」「私のような独身者は他人に迷惑をかけないのに」――といった意見は、これまで「子持ち様」を社会的にも道徳的にも圧倒する口実として十分な効果を発揮していたかもしれない。だがそれは所詮しょせん、この社会に「少子化」の深刻さとそのインパクトを相殺する余力がまだ残されていたから、つまり余裕の産物だったにすぎない。

カフェでノートパソコンとスマホを使用している女性の手元
写真=iStock.com/mapo
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少子化が進んだ先にあるのは「マンパワー不足」

いよいよ子どもが減り、若年人口が失われ、労働力の安定供給もなくなり、人口動態のバランスが崩れて社会保障の持続可能性が損なわれ、マンパワー不足で社会インフラや生活インフラの保守点検すらもままならなくなっていくことが確実に避けられなくなったこれからの時代においては、「独身であること」の立場はいまほど強くはなくなっていく。少なくとも「子持ち様」と蔑称をつけて、好き放題に攻撃できるような立場ではなくなっていく。

人間社会というのは、いくら高度な文明を発展させようが、最新技術を進歩させようが、豪華な高層ビルを何棟も建てようが、結局のところ人口再生産性の持続可能性が担保されていなければ元も子もない。せっせと働いても、そこに人がいなければどうしようもないし、人がいなければやがて「働き」それ自体も失われていってしまう。おカネをいくら刷っても、それを受けとって動ける人がそこにいなければ、それはただの紙切れでしかない。まだ私たちは「生殖」をテクノロジーで外部化して克服しているわけではない。国も共同体も人あってのものだ。