「子持ち様」をめぐる論争はいつまで続くのか。文筆家の御田寺圭さんは「『子持ち様』批判に共感が集まる時代はもうすぐ終わる。急激な少子化とそれに伴う人手不足により、子どもを産み育てている人の『社会貢献』の度合いが高く評価されるようになるからだ」という――。
公園でベビーカーを押す母親
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「子持ち様」

――という言葉を、ちかごろのSNSではしばしば目にするようになった。

これは「子どもの世話にかこつけて、周囲に迷惑をかける人」を揶揄するネットスラングで、公私とわず普段のあらゆる場面で「子持ち(とくに女性)」から被った迷惑や害について語るさい頻繁に用いられるようになり、とくにSNSの独身女性の間で定着するようになったワードである。

たとえば子育て真っ最中の同僚が、保育園に預けていた子どもの急な発熱で早退した場合、残ったメンバーで急な欠員をカバーしなければならなくなる。それは自分も子育て中の同僚からすれば「持ちつ持たれつ」と考えることもできよう。しかしそうでない人、つまり独身あるいは子どもを持っていない人、いわゆる「おひとり様」にとってそれは単なる片務的なしわ寄せであり、これに不公平感が募ってしまうのは仕方ない側面もある。

そうした職場内における(主として女性同士の)不公平感が「ああ~今日も『子持ち様』の尻ぬぐいのために残業だよ」といったSNS上の共感を呼び、今日「子持ち様」がすっかり揶揄的なミームとして定着することになった。

「女性の社会進出」を選んだ以上避けられない状況

しかしながらこのような不公平な状況は、現代社会が「女性の社会進出(性役割分業の否定)」をコンセンサスとして選んだ以上必至だったと言わざるを得ない。職場にいる女性が女性としてのライフイベントを完全に諦めたことを確約しているかというと、必ずしもそういうわけではない。子どもの急な体調不良だけでなく、結婚・妊娠・出産にともなう予測困難なオペレーションの変動が現場レベルでは避けがたく生じる。

そもそも「子持ち様」と「おひとり様」の女性同士の利害対立と不公平が募ってしまう根本的な原因のひとつは、「子どもの発熱」のときにもカバーしてくれるタイプの(≒仕事より家庭に大きなコミットメントを割いてくれる)パートナーを女性がとくに選好しない状況だ。わかりやすくいえば「家庭的な男性」よりも「稼得能力の高い男性」を選んでしまう傾向があるということだ。結果的に、必ずしも女性を稼得能力のみで選好しない男性と異なり、女性はライフイベントの影響を受けやすい傾向にあることは否定しようがないし、女性が多い部署や企業内では独身女性と子持ち女性の激しい利害対立が生じてしまうことになる。

近年は女性の結婚年齢・未婚率がともに上昇していることもあって、SNSでは「子持ち様の横暴に私たち独身女性が苦しめられている」という論調がきわめて優勢である。独身者が被害者であり、子持ち様は加害者であるという二項対立的なナラティブが共感を呼び、ますます「子持ち様」に対するネット上の風当たりは強くなっている。そうした状況を目ざとく発見したテレビメディアも「子持ち様」を特集するなどしている。

「子持ち様が迷惑」と言える時代は終わる

だが、はっきり述べておくが「『子持ち様』が私たちにまた自分勝手な迷惑をかけて……」といった申し立てによって共感が集められていた時代は、もうすぐ終わりを迎える。

ご存知のとおり、2020年代から出生数は急激にその減少ペースが速まり、2023年は過去最少となる76万人足らずとなった。改めて見ると恐ろしい数字だ。2023年生まれの子どもたちの同学年は全国に80万人もいないのだと書くと、そのインパクトの大きさを感じられる。

いずれにしても、猛烈な速度で少子化が進行する時代においては、「子ども」のプレミアは相対的にますます上昇することになる。なおかつ、子どもを産み育てている人の「社会貢献」の度合い(道徳的優位性)もそれにともなって大幅に改善していくことは確実だ。

「子持ち様が子どもの熱だか卒業式だか知らないけど、すぐ休んで私たちに仕事を押し付けていてズルい」「私のような独身者は他人に迷惑をかけないのに」――といった意見は、これまで「子持ち様」を社会的にも道徳的にも圧倒する口実として十分な効果を発揮していたかもしれない。だがそれは所詮しょせん、この社会に「少子化」の深刻さとそのインパクトを相殺する余力がまだ残されていたから、つまり余裕の産物だったにすぎない。

カフェでノートパソコンとスマホを使用している女性の手元
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少子化が進んだ先にあるのは「マンパワー不足」

いよいよ子どもが減り、若年人口が失われ、労働力の安定供給もなくなり、人口動態のバランスが崩れて社会保障の持続可能性が損なわれ、マンパワー不足で社会インフラや生活インフラの保守点検すらもままならなくなっていくことが確実に避けられなくなったこれからの時代においては、「独身であること」の立場はいまほど強くはなくなっていく。少なくとも「子持ち様」と蔑称をつけて、好き放題に攻撃できるような立場ではなくなっていく。

人間社会というのは、いくら高度な文明を発展させようが、最新技術を進歩させようが、豪華な高層ビルを何棟も建てようが、結局のところ人口再生産性の持続可能性が担保されていなければ元も子もない。せっせと働いても、そこに人がいなければどうしようもないし、人がいなければやがて「働き」それ自体も失われていってしまう。おカネをいくら刷っても、それを受けとって動ける人がそこにいなければ、それはただの紙切れでしかない。まだ私たちは「生殖」をテクノロジーで外部化して克服しているわけではない。国も共同体も人あってのものだ。

批判されるのは「独身様」に…殺伐とした時代の到来

少子化の時代には、子どもを産み育てることの重要性や社会的価値は高まっていく。「子持ち様」もいまのような蔑称ではなく、本当の意味で一等市民的に遇されるようになっていくだろう。一方で、人口動態の持続可能性に貢献できない独身者は「人口再生産性に貢献できなかったのだから、あなた方はせめて労働でカバーするのが筋だろう」という扱いになる。

つまり、これまで世間に対して申し訳なさそうにしていた(することを求められていた)のが「子持ち様」だったのなら、今後はそれが「独身様」に変わっていくということだ。

いままでの時代は、まだギリギリ現役世代がそれなりのボリュームで担保されていたのでこんなことを考える必要はなかったが、これからの時代にはそうはいかない。「社会・経済・インフラ・生活それぞれの基盤となるマンパワーをだれが供給してくれていたのか/だれがマンパワーをろくに供給せずそれらにタダ乗りしているのか」を否応なしに意識させられる、そんな殺伐とした時代に変わっていく。

渋谷のスクランブル交差点を渡る人々
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「公共空間で迷惑をかけない大人」の価値が下がる

ネット上における「子持ち様」の盛り上がりを支えていたもうひとつの側面は、公共空間での「迷惑」だろう。ようするに電車で子どもが騒いでうるさいとか、商業施設で走り回るとか、そうした公共のマナーやモラルの観点から「子持ち様は周囲の迷惑もろくに顧みられない人たちなのだ」といった論調に共鳴する流れのことだ。

しかしながら、こうした側面でも「子持ち様」をバッシングするような流れは徐々に下火になっていくだろう。

先述したとおり、少子化の時代における「子どもを持つこと」の重要性の高まりによって、かれらの社会の持続可能性への貢献が再評価される。かれら子育て世帯のもたらす多大な貢献に比べれば、かれら(の幼い子どもに)によって日常生活のさまざまな場面で生じてしまう周囲への「迷惑」などそれこそ不可抗力的なものであり、社会全体に与えられるメリットに比べれば目をつぶっても十分おつりがくる些末な必要経費にすぎない――という流れに社会全体が変わるだろうということだ。

これまでは「社会的により望ましい存在」として遇されてきたのは、そうした「迷惑」を周囲にかけずに、波風立てずスマートかつ静穏な生活を送る「おひとり様」の人びとだった。しかし少子化と高齢化が凄まじい勢いで深刻化してくる時代においては潮目が変わる。「大人が街や公共空間で大人しく生活していることなんかそもそも当たり前の話であって、世の中で見れば別に激賞されるほどの貢献でもなんでもなかったのだ」という評価へと変わり、その道徳的地位が相対的に低下していく。

もっとも、「大人が大人しく迷惑をかけない都市生活者として振る舞うこと」の評価がいままで不当に高すぎたのであって、それが適正な評価に落ち着いてきただけではないかともいえるが。

子持ち世帯への“まなざし”はポジティブに変わるだろう

岸田政権は「異次元の少子化対策」と銘打ち、これまでいくつもの子育て支援もしくは子育て世帯をエンパワメントするような政策を検討したり、実際に打ち出してきている。

税制優遇や住宅ローンの金利優遇などといった金銭的な支援はもちろんのことだが、「子どもファストトラック」と称して公共施設の「子連れ優先」施策を打ち出したり、「子どもの泣き声は騒音ではない」ことを保証するための法制化をすすめるなど、数字では表れない子育て世帯の心理的プレッシャーや不便さ、かれらが知らず知らずのうちに負わされる“後ろめたさ”の解消にも努めている。

私はこれらの政策が必ずしも「少子化対策」になるとは考えてはいないが、しかし少なくとも「子持ち世帯」に対する世間からの“まなざし”にはポジティブな変化を起こすだろうと考えている。

これらは「子持ち様への不当な優遇」というわけではない。人口再生産性(共同体の持続可能性)に寄与するという多大な貢献をしていたにもかかわらず、「熱で子どもが休んだ」くらいでその貢献値が吹き飛ばされてマイナスに振れてしまう程度にこれまでは過小評価されていたという方が適切だ。本来の評価にふさわしい立場やリワードがもたらされるように適正化されつつあるだけなのだ。

子持ち様は「有り難がられる子持ち様」になる

いずれにしても、SNSやメディアで「子持ち様」に対する激しいバッシングや侮蔑によって大盛り上がりできていたのは、この社会にまだ「子どもが生まれない世界がどのような光景になるのか」を切実な問題として想像しなくてすむ(目をそらしていられる)余裕が残されていたからだ。

……だがそのような余裕も、そろそろ底をつく。

「だれが本当に社会の持続可能性に貢献しているのか」という文脈はいま以上にはっきりと浮き彫りになり、それと並行する形で、政治的にも社会的にも文化的にも人間関係的にも「子どもを持たない者」に対する風当たりは強くなっていく。

「子持ち様」は、いずれ本当の意味で社会から有り難がられる子持ち様として遇されるようになり、翻っておひとり様こそが今度はSNSやメディアで「おひとり様」と呼ばれるようになる。問答無用で進行する少子化と高齢化、インフレと人手不足の時代は、驚くほどあっさりと時代の流れを反転させる。

私があまり「生涯独身主義」を推奨しないのはこのためだ。