批判されるのは「独身様」に…殺伐とした時代の到来

少子化の時代には、子どもを産み育てることの重要性や社会的価値は高まっていく。「子持ち様」もいまのような蔑称ではなく、本当の意味で一等市民的に遇されるようになっていくだろう。一方で、人口動態の持続可能性に貢献できない独身者は「人口再生産性に貢献できなかったのだから、あなた方はせめて労働でカバーするのが筋だろう」という扱いになる。

つまり、これまで世間に対して申し訳なさそうにしていた(することを求められていた)のが「子持ち様」だったのなら、今後はそれが「独身様」に変わっていくということだ。

いままでの時代は、まだギリギリ現役世代がそれなりのボリュームで担保されていたのでこんなことを考える必要はなかったが、これからの時代にはそうはいかない。「社会・経済・インフラ・生活それぞれの基盤となるマンパワーをだれが供給してくれていたのか/だれがマンパワーをろくに供給せずそれらにタダ乗りしているのか」を否応なしに意識させられる、そんな殺伐とした時代に変わっていく。

渋谷のスクランブル交差点を渡る人々
写真=iStock.com/EL Studio
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「公共空間で迷惑をかけない大人」の価値が下がる

ネット上における「子持ち様」の盛り上がりを支えていたもうひとつの側面は、公共空間での「迷惑」だろう。ようするに電車で子どもが騒いでうるさいとか、商業施設で走り回るとか、そうした公共のマナーやモラルの観点から「子持ち様は周囲の迷惑もろくに顧みられない人たちなのだ」といった論調に共鳴する流れのことだ。

しかしながら、こうした側面でも「子持ち様」をバッシングするような流れは徐々に下火になっていくだろう。

先述したとおり、少子化の時代における「子どもを持つこと」の重要性の高まりによって、かれらの社会の持続可能性への貢献が再評価される。かれら子育て世帯のもたらす多大な貢献に比べれば、かれら(の幼い子どもに)によって日常生活のさまざまな場面で生じてしまう周囲への「迷惑」などそれこそ不可抗力的なものであり、社会全体に与えられるメリットに比べれば目をつぶっても十分おつりがくる些末な必要経費にすぎない――という流れに社会全体が変わるだろうということだ。

これまでは「社会的により望ましい存在」として遇されてきたのは、そうした「迷惑」を周囲にかけずに、波風立てずスマートかつ静穏な生活を送る「おひとり様」の人びとだった。しかし少子化と高齢化が凄まじい勢いで深刻化してくる時代においては潮目が変わる。「大人が街や公共空間で大人しく生活していることなんかそもそも当たり前の話であって、世の中で見れば別に激賞されるほどの貢献でもなんでもなかったのだ」という評価へと変わり、その道徳的地位が相対的に低下していく。

もっとも、「大人が大人しく迷惑をかけない都市生活者として振る舞うこと」の評価がいままで不当に高すぎたのであって、それが適正な評価に落ち着いてきただけではないかともいえるが。