見下された氏康はついにブチ切れ、主君に宣戦布告する
戦国軍記はいずれも氏康が徹底して謝罪と停戦を訴えていたことを伝えている。そして、それは敵を油断させるための策略だったことにされている。実際はそうではなく、氏康は本気でそうしようと努めていたのであり、晴氏・憲政・朝定はこれを見下して、戦わずして完全なる勝利を得ようと、応答を拒んでいたのだろう。
北条氏康は、河越城を囲む敵勢のうち、「砂窪」(砂久保)という土地に布陣して糧道を塞ぐ常陸小田政治家臣の菅谷隠岐守に接近していた。ここを開いてもらい、河越城内への兵糧輸送を許してもらうためである。しかし、ここで憲政が動いた。菅谷隠岐守が氏康に同情したら、せっかくの交渉材料が減ることになる。
ここで憲政は「このような交渉には応じない。城兵もこのまま皆死んでもらう」と返答したという。お前たちがまだ抵抗を続けるつもりなら、飢え死にさせるという意味だろう。
ここで氏康は限界に達した。このような者たちに義などない。氏康は、公方として仕えてきた足利晴氏に宣戦布告状を書き送った。そこには、自分が粘り強く交渉を続けてきたが、公方様の不義によって奸臣(悪い家臣)たちと決戦することを決めた、と記されている。
氏康は合戦を決意、兵たちも「一命は義によって軽し」と覚悟
勝敗にかかわらず、北条諸士の名誉を守ることが目的だっただろう。河越城合戦、河越城の戦い、河越夜戦などと呼ばれる合戦の主戦場は、砂窪になった。氏康が砂窪に迫ったことで、上杉憲政、上杉朝定、そして足利晴氏がここに取りつこうとしたのである。しかし、北条諸士は「一つの命は義によって軽し」と決死の覚悟で連合軍に挑みかかった。4月20日のことである。時間は夕暮れ前後であっただろう。
軍記などでは、このとき、全軍に白い紙の羽織を着せた氏康が「白い服を着ている者以外は全て敵である。合言葉のないものは討ち取れ。重い指物や馬鎧は懸けるな。首はうち捨てにせよ。前にあるかと思えば後ろに回り、一所に止まらないようにせよ」という指令を下し、北条軍が一騎当千の死闘を繰り広げたと描かれる。