「東京リベンジャーズ」のような抗争が続いていた戦国の関東
天文10年(1541)7月、北条氏綱が病死した。その息子、北条氏康の名を轟かせることになる「河越城合戦」は、この4、5年後のことである。本来なら関東のトップは、下総古河におわせられる関東公方(※1)・足利晴氏のはずであった。だが、関東の事実上の天下人は氏綱と化していた。どうしてそうなってしまっていたのか。
ある時、公方の一族で内輪もめがあった。永正15年(1518)、下総の足利義明が独立して、「小弓公方」として振る舞うようになったのだ。もちろん支持する層あってのことだ。このため、関東公方は、小弓公方の義明と、古河公方の晴氏に分裂することになった。これが関東公方凋落の一因となっていく。
関東公方の足利晴氏は足利義明にケンカを売られ、氏綱を頼る
古河の晴氏は、先代公方・足利高基の息子である。小弓の義明は、高基の弟である。どちらも血筋としては優劣つけがたい。だが、キングはふたりもいらない。晴氏と義明の確執は深く、ガンマンがピストルに手をかけながら互いに互いを睨み合う状態が長く続いた。そんな天文6年(1537)5月、風が吹く。
ダンブルウィード(※2)のように転がったのは、安房の里見義堯だった。これからは古河ではなく、小弓の時代だと立場を明確にしたのだ。それまで情勢を見張っていた関東の領主層が一気に旗幟を鮮明にしていく。古河派、小弓派が互いに争い合う。もはや決戦しかない。
このとき、晴氏の片腕となるべきは、関東管領である山内上杉家当主・憲政であった。だが、憲政はまだ19歳である。しかもこの時期、史料上では晴氏が憲政を関東管領として認めていた様子がない。実績不足の憲政は、求心力が育っていなかった。
晴氏がひとまずすぐに頼れるのは、憲政よりも、氏綱だった。伊豆相模を拠点とする新興勢力・北条家の当主である。
(※1)室町幕府が関東10カ国を統治するために設置した「鎌倉公方」を足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。「関東公方(管領)」はその鎌倉公方の補佐役。
(※2)西部劇の決闘シーンでよく見られる球状になった枯れ草。
氏康の父・氏綱は新興勢力・北条家の二代目で、狡猾な男
二代目当主の氏綱は、天文2年(1533)3月、鎌倉の鶴岡八幡宮を復興させて、関東に並びなき大名となる意欲を見せている。氏綱はわざわざ大和の興福寺から職人たちを呼び寄せて、大造営を開始した。関東にあるべき秩序を構築するには、その実力が必要だ。晴氏は、氏綱を主戦場に派遣する。
天文7年(1538)10月、氏綱は足利義明と国府台の地(現在の千葉県市川市)で戦って、見事にこれを討ち取った。決定打となったのは、氏綱自身の乗り込みである。苦戦に追い込まれた氏綱は、本陣を嫡男の氏康に預けると、自ら馬に跨って敵陣に突撃したのだ。
陣形を乱された小弓軍に、北条軍の猛攻が加わって、義明の敗死を招いたのである。総崩れが始まり、全ては誰もが認める決定的勝利に終わった。古河の晴氏は、氏綱を関東管領に任じて、その功績に報いた。
しかも晴氏は梁田晴助の妹(姉ともいう)を娶っていたが、氏綱の娘である芳春院殿(北条氏康の妹)を「御台(正妻)」に迎えた。晴氏と晴助妹との間にはすでに長男(後の足利藤氏)がいたが、芳春院殿もまた男子(後の足利義氏)を産んだ。
国府台合戦で義明を破った氏綱は、晴氏に重用されるが……
一連の流れは、晴氏と氏綱の君臣が幸せな結びつきを得たように思えるかもしれないが、当然ながら簗田晴助、上杉憲政らは面白くなかったはずだ。
それどころか、当の晴氏も実は不快に思うところがあったらしい。周囲の人間が大きく変わって、このままでは傀儡も同然ではないかと嘆きを強くしたのではないか。
そもそも氏綱はかなり狡猾な男であった。鶴岡八幡宮造営のときも、資金集めと称して房総に手のものを送り出し、親北条派と反北条派を明らかにしたあと、軍勢を送り込むなど、露骨な侵略計画を実行するほど計略に長けている。晴氏の囲い込みも、北条家の繁栄を考えてのことだろう。
とはいえ国府台合戦で晴氏のために命懸けの奮闘をしている辺り、単なる野心だけで公方の権力を奪おうとしたのではなく、晴氏の周囲からノイズを除去することが、公方のためになると考えていたようにも思える。
だが、その氏綱が亡くなると、足利晴氏は北条の影響力を排除しようと動き始めた。憲政や晴助もこの動きに加担する。天文11年(1542)、20歳の上杉憲政は、鹿島神社に「八州併呑」の野心をあらわす北条家と「決戦」して、「君」たる晴氏を助け、「民」を救いたいとの願文を捧げた。
氏綱の子・氏康を潰そうと、河越城を包囲する晴氏らの軍
天文14年(1545)、氏康家臣の北条綱成は武蔵河越城(現在の埼玉県川越市)にいた。綱成は、氏康の家臣であり、親友であった。預けられた兵力は3千。少なくは、ない。ここに上杉軍が迫る。
かつてこの城は扇谷上杉家当主・朝定の居城であった。朝定が家督を継いだその年(1537)、氏綱がこれを奪った。朝定13歳の時であった。あれから8年──。恨み骨髄に達する朝定が、時は今ぞとばかりに、憲政に奪還の支援を要請した。反北条派は、関東に少なくなかった。
もともと力を失っていた両上杉家(山内・扇谷)当主の声掛けだったが、数えきれないほどの大軍が集まって(一説には8万人とも言われる)、河越城を取り囲んだ。9月26日のことである。事態を聞いた氏康は、いたく驚いたようだ。
タイミングは最悪だった。領土問題が激化した駿河の今川義元と対峙している最中だったからである。これぞ憲政の狙いであった──。義元に北条軍の主力を足止めさせて、その間に河越城を危険にさらして、もてあそんでやるつもりでいたのだ。
ところで通説は、「関東管領の上杉憲政が河越城を攻め囲んだ」とするが、憲政は公的には関東管領ではなかったはずである。また、実際はじめに戦地へ赴いたのは憲政であったが、背後でこれを支持していたのは、氏康の主君であるはずの古河公方・足利晴氏であった。天文14年(1545)10月27日、河越城を囲む軍勢のもとに、晴氏その人が着陣する。この戦いは、憲政と氏康ではなく、晴氏・憲政連合と氏康の戦いだったのである。
用意周到な公方軍、北条氏康の留守をついて河越城を包囲
北条氏康は、甲斐の武田晴信に仲介を依頼した。晴信が動く。晴信は、氏康が今川義元および上杉憲政と和睦するよう交渉を進めることにした。義元も領土割譲を条件に「矢留」(戦いをやめること)を約束した。9月22日、ここに停戦が締結されたのである。
この停戦に双方が合意したとき、実はまだ憲政は河越城を攻囲していない。義元も氏康も、憲政が今ここで動いていることを知らなかった。ただ、憲政が氏康に敵意を募らせていること、不穏な動きを見せていることは知っていたであろう。河越城の攻囲は、北条軍から今川軍への領土の引き渡しが進められている間に起きたのである。
引き渡しを終えるまで、かなりの時間を要した。慎重に段取りを進め、双方が引き上げたのは12月9日のことだった。本来なら晴信が憲政に連絡して、兵を引くよう交渉するべきところである。だが、晴信が提案した「三方(北条・今川・上杉)」の和睦は、その後に憲政が出馬したことで、実を伴わなかった。
足利晴氏、上杉憲政、上杉朝定による河越城攻囲
上杉朝定は河越城の奪還を望んでいた。憲政は関東管領の役職を望んでいた。晴氏は、氏康の全面降伏を望んだであろう。彼らにすれば、氏康など今川義元の武威に屈した腰抜けにすぎない。河越城を人質にして、脅かしてやればなんでも言うことを聞かせられると思ったのではないか。
対する氏康は、何度も上杉憲政に使者を往復させ、河越城から兵を返すよう交渉したと思われる。氏康は今川軍との対峙を終えた12月から、翌年4月までの4カ月間、軍事的リアクションをまったく起こしていない。氏康が河越城を見捨てるはずもないので、平身低頭する思いで和睦の案を繰り返し伝えていたのだろう。
その成果として、足利晴氏だけは一度帰陣を決意したようだった。氏康は安堵した。ところが、晴氏はしばらくすると翻意して、また河越城攻めに加わった。それまで北条との交渉材料であったため、氏康から河越城への兵糧輸送を見逃していたが、今度はその糧道を塞ぐ形で布陣した。
もはや、決断の時である。天文15年(1546)3月、氏康は相模から軍勢を率いて武蔵河越城へと北上する。
氏康は連合軍に対して穏便に交渉を進めたが……
足利晴氏・上杉憲政・上杉朝定は、一歩も譲る気がなかったようだ。河越城がずっと持ち堪えたのは、彼らがあえて手ぬるく包囲していたからであろう。この間、河越城は一応生き延びられるだけの兵糧を運び入れることができていた。
ついに氏康本人が出てきた。氏康は、戦場にいる敵陣の武将たちに口利きを頼み、合戦直前まで低姿勢な交渉を繰り返したようである。氏康はこの時の武将たちとの書状で、小金城主・高城胤忠に「御同意」を得られたことに喜び、「御芳志」に「奉憑(たのみたてまつります)」と、ほとんど土下座するような姿勢を見せている。
また、氏康は、太田家臣・上原出羽守にも、あなたの働きかけで扇谷家臣の太田全鑑(岩附城主・太田資顕)と、入魂(仲のいい関係)にする運びになったことへの謝辞を述べている。通説は、一連の書状を、彼らに内応の約束を取り付けたものと見ているが、結果から訴求的な解釈を加えたものであって、無理が多い。このタイミングで、兵数で優位に立つ上杉軍を裏切って、ここまで腰の低い若者の下につくことを考えるだろうか。
見下された氏康はついにブチ切れ、主君に宣戦布告する
戦国軍記はいずれも氏康が徹底して謝罪と停戦を訴えていたことを伝えている。そして、それは敵を油断させるための策略だったことにされている。実際はそうではなく、氏康は本気でそうしようと努めていたのであり、晴氏・憲政・朝定はこれを見下して、戦わずして完全なる勝利を得ようと、応答を拒んでいたのだろう。
北条氏康は、河越城を囲む敵勢のうち、「砂窪」(砂久保)という土地に布陣して糧道を塞ぐ常陸小田政治家臣の菅谷隠岐守に接近していた。ここを開いてもらい、河越城内への兵糧輸送を許してもらうためである。しかし、ここで憲政が動いた。菅谷隠岐守が氏康に同情したら、せっかくの交渉材料が減ることになる。
ここで憲政は「このような交渉には応じない。城兵もこのまま皆死んでもらう」と返答したという。お前たちがまだ抵抗を続けるつもりなら、飢え死にさせるという意味だろう。
ここで氏康は限界に達した。このような者たちに義などない。氏康は、公方として仕えてきた足利晴氏に宣戦布告状を書き送った。そこには、自分が粘り強く交渉を続けてきたが、公方様の不義によって奸臣(悪い家臣)たちと決戦することを決めた、と記されている。
氏康は合戦を決意、兵たちも「一命は義によって軽し」と覚悟
勝敗にかかわらず、北条諸士の名誉を守ることが目的だっただろう。河越城合戦、河越城の戦い、河越夜戦などと呼ばれる合戦の主戦場は、砂窪になった。氏康が砂窪に迫ったことで、上杉憲政、上杉朝定、そして足利晴氏がここに取りつこうとしたのである。しかし、北条諸士は「一つの命は義によって軽し」と決死の覚悟で連合軍に挑みかかった。4月20日のことである。時間は夕暮れ前後であっただろう。
軍記などでは、このとき、全軍に白い紙の羽織を着せた氏康が「白い服を着ている者以外は全て敵である。合言葉のないものは討ち取れ。重い指物や馬鎧は懸けるな。首はうち捨てにせよ。前にあるかと思えば後ろに回り、一所に止まらないようにせよ」という指令を下し、北条軍が一騎当千の死闘を繰り広げたと描かれる。
河越夜戦こと「砂窪合戦」は実際にどう展開したのか
意気地のなかった氏康がここで一気に豹変して応戦するとは予想していなかったのだろう。連合軍は油断をつかれて、押されてしまった。1時間の交戦のあと、追撃戦が始まった。勝ち残った北条氏康、城内の北条綱成が力を合わせて逃げる敵兵を次々と討ち取っていく。
綱成は地黄八幡の旗(黄色の絹に軍神「八幡」の二文字と書いた隊旗)を翻して「勝った、勝った」と大声をあげながら、勇躍した。
上杉憲政は敗走、上杉朝定は戦死した。足利晴氏は北条軍に降伏し、氏康は晴氏を殺せなかった。その代わり、元凶は上杉憲政だったという妥協的合意を取り、もとどおり晴氏を古河公方として推戴することにしたのであった。
そこからというもの、トカゲの尻尾のように切り捨てられた憲政は、武運に恵まれず、武田晴信にも敗北して、越後の長尾景虎こと上杉謙信に支援を依頼することになっていく。河越城の砂窪合戦が、武将たちと、その後の関東の運命を一変させたのだった。