自動車メーカーとなってからの海外戦略の成功と失敗

1981年にスズキはGM(ゼネラルモーターズ)と資本提携を交わした。GMは1000ccクラスの小型車を共同開発する相手、スズキは北米市場進出の仲介役を探しており、提携に踏み込んだ。この頃からスズキの海外戦略が加速。1982年にインド政府が国民車構想のパートナーを選びに来日。スズキが選ばれ、インドに進出。同国のシェア過半数を占めるまでに成長した。

2008年、GMが経営危機に陥り、GMは保有するスズキの株式全ての売却を決定。これを受けて、スズキは自社買取に応じた。

翌2009年、スズキはGMに代わる提携相手をVW(フォルクスワーゲン)と決め、同社と対等な関係での包括的提携を発表。持ち分法の適用となる20%に至らない形での資本提携とした。ところが、VWはスズキへの出資比率を引き上げて持ち分法の適用範囲とする(支配関係で上に立つ)構えを見せる一方、スズキが期待する技術提供を怠った。そこで、スズキは2011年に提携の解消を発表。VWにスズキ株式の返還を要求したが、VMは応じず、訴訟問題となった。

2015年、国際仲裁裁判所はVWが保有するスズキ株式の売却を命じた。これにより、VWは保有するスズキの全株式を手放し、公式に提携解消となった。

婿養子戦略にも限界が…頓挫した世襲計画

創業者で初代社長の鈴木道雄、2代目社長・鈴木俊三はともに70歳で現役を退いた。2000年、70歳になった鈴木修は、戸田昌男(1935~2007)に5代目社長を譲った。創業者一族以外で初の社長就任である。

後継者には、通産省(現・経済産業省)出身の娘婿・小野浩孝(1955~2007)を念頭に置いていたが、小野はまだ45歳。トヨタ自動車は創業者一族の後継者が若年であると、サラリーマン社長で繋ぎながら、満を持してバトンタッチしている。鈴木修もそのやり方を見倣ったのだろうか。

2003年に津田ひろし(1945~2020)が6代目社長に就任。2007年12月に小野が膵臓ガンで急死してしまう。翌2008年には津田が健康上の理由で退任。鈴木修は長男・鈴木俊宏(1959~)を小野に代わる後継者に考えていたが、まだ41歳。やむなく自ら社長(7代目)に復帰。会長兼社長となった。

そして、2015年、鈴木修は満を持して長男・鈴木俊宏(1959~、現社長)を8代目社長に指名した。娘婿が死去したので、実の息子を社長にする――婿養子社長が3代続いたスズキの真骨頂といえるのかもしれない。スズキ創業家にとって、これが初めての男系世襲だということは、意外に知られていない。

参考文献
・鈴木修『俺は、中小企業のおやじ』(日本経済新聞出版社)
・中西孝樹『オサムイズム “小さな巨人”スズキの経営』(日本経済新聞出版社)
・公益財団法人鈴木道雄記念財団ホームページ「鈴木道雄95年の歩み

菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者

1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。