徳川御三家に気を使いつつ、武士の貧困問題に取り組んだ

絶対的な権力を握ったかに見える定信ですが、独裁者然として振る舞ったわけではありません。重要な事柄は、尾張、紀伊、水戸の御三家ごさんけにおうかがいを立てています(御三家を幕政に関与させるというのは異例のこと。これは定信の老中就任の経緯が関係しているものと思われます)。また、他の老中ともよく相談をして物事を推進しています。

定信が老中に就任したころは、武士の義気(義侠心)が衰えて、町人の勢いが増していました。下の者が上の者をしのぐ(下勢、上をしのぐ)ような風潮が現出していたのです。武士の中には、生活に困窮し、商人に借金する者もいました。困窮と借金地獄。

二重苦から武士(旗本・御家人)を救い出すために出されたのが、寛政元年(1789)の「棄捐令」です。棄捐令とは、札差(旗本・御家人に代わって蔵米の受取り・販売を行い、手数料をもらいうけた商人)に対する借金を一部もしくは全部破棄させた法令のこと。天明4年(1784)以前に旗本や御家人が札差ふださし(年貢米を金銭に換える業者)から借りた金は破棄。天明5年(1785)から寛政元年までの借金は利子を引き下げ(年利を18パーセントから6パーセントに)、年賦返済(分割払い)とされました。

「松平定信自画像」鎮国守国神社(三重県桑名市)、天明7年6月
「松平定信自画像」鎮国守国神社(三重県桑名市)、天明7年6月(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons

武士の借金を破棄させたが、旗本たちが救われたわけではない

だが、札差はこの棄捐令により、約118万両という債権を失いました。当然、札差の閉店や、貸し渋りが起こります。一部の武士は救われたのかもしれませんが、全体として見れば、旗本らの財政は必ずしも好転しませんでした(後に天保の改革においても棄捐令が発布されています)。武士の義気の回復に棄捐令が結び付いたとも思えません。小禄の御家人のなかには、住所も定まらず(住所不定)、衣服はあっても「大小(大刀と小刀)」を持たない者もいました。そうした者たちを何とか更生させるため、甲府・駿府・鎌倉の地に集め、収容するプランも出されます(学問所での教育も行う)。

また、武術の上覧(将軍の御前で武術を披露)や学問試験を行い、秀でた者を表彰するという計画も立てられます。寛政の改革における文武奨励は、文人・大田南畝の狂歌で「ぶんぶ(文武)というて、寝てもいられず」と蚊の羽音とかけて茶化されることになります。しかし、文武奨励には、武士の義気回復と下剋上的風潮を改善しようとする定信の思惑があったのです。