紫式部が15歳のとき、父が教育した親王が天皇となるが…
式部4歳の頃に彼女は母と死別した。総じて式部の一家は山あり、谷ありで、円融・花山・一条の各天皇の時期の典型的な文人貴族だ。父・為時は式部が8歳のおり、東宮、師貞親王(花山天皇)の読書始の儀で副侍読を務め、また父為時の兄為頼が摂関家の藤原頼忠家の歌会に出席するなど、式部の成長する環境のなかで少なからず影響を与えたはずだ。
その後、式部が15歳の時期に、師貞親王が即位する。為時もかつての侍読の縁もあって、この花山天皇の永観2年(984)、式部丞となる。(編集部註:律令制における八省のひとつである)式部省の三等官の立場で、中下級貴族としての地位を与えられた。為時は翌年には、摂関家の道兼邸に招かれ作詠をなした。さらに翌年には遅ればせながら、38歳で蔵人・式部大丞に任ぜられ、為時は歌人としても知られる存在となった。
花山天皇が19歳で退位し、父親は出世が絶望的に
式部も17歳となったが、その時期、彼女の一家を不幸が襲う。期待の花山天皇が寛和2年(986)6月、退位・出家におよんだ(寛和の変)。冷泉天皇の第一皇子、その母は伊尹の娘・懐子だった。安和の変の年に皇太子となり、17歳で即位した。けれども、在位2年も満たない寛和2年に禁中を脱し花山寺で出家した。藤原為光の娘で女御の忯子の死がきっかけとされた。これに同情するそぶりで退位をそそのかしたのが、兼家の子息道兼だった。このあたりは『大鏡』(花山天皇紀)、『栄花物語』(花山たづぬる中納言)にも描かれている。
花山朝にあって、上昇気流に乗ることを期待した人々のなかに、式部の一家もいた。その花山の退位で、父為時も官を失う。「寒門」の悲哀を味わうことになる。天皇を軸に回っていた式部の一家も、その影響で外祖父・為信が出家するなど、負の連鎖が続く。