未来を競争社会に特化してイメージしている
小学校で英語が必修化されたのだから、家庭でも早期の英語教育が大事。2025年から共通テストに「情報」科目が加わるから、プログラミング的思考を育てておくことが重要。こういう発想から出てくる「今どきは○○くらいできなきゃ」という言葉のあとに続くのは、「そうでなければ競争に負けてしまう」でしょう。
そこでは、子どもたちが生きる未来は競争社会に特化してイメージされており、我が子の勝ち残りのために親が知力と財力を使うことが当然のこととされています。そう考えればこれは、親ぐるみの学歴取得競争に他者を引っ張りこんでいく言葉でもあるといえます。
不安をあおって教育商品を売りこむ面も
一般的には子どもの幸せは親の願いであり、「子のために親ができるだけのことをする」という発想はわたしたちの素朴な感性に受け入れやすいものです。でも、それが「子どもが競争社会で有利になるよう親が習い事に投資する」となったらどうでしょうか。そこでは他者は、協働したり連帯したりする対象ではなく、どちらがより「上」に行けるかを競う相手になります。
この言葉がずるい、というよりトリッキーなのは、親たちに一生懸命な子育てをうながすことで、いつのまにか教育における格差をはっきりさせ、分断に加担させていくところです。
さらにいえば「今どきは○○くらいできなきゃ」は、親の不安をあおることで、経済的に苦しくなっても教育費は削らない傾向のある日本の家庭に、さまざまな教育商品を売る呪いの言葉になっていることも見逃せません。「英語やプログラミングを学べばあなたの子どもは競争に勝ちやすくなりますよ」と教育産業はささやきますが、未来は不透明で「将来必要になる力」を見通すのは困難です。「これをやっておけば安心」というものはないと知っておくことも大事だと思います。
抜け出すための考え方
「今どきは○○くらいできなきゃ」といわれて焦りや不安を覚える自分を、引いた視点から眺ながめる「もうひとりの自分」を想定してみましょう。
子どもにはどんな未来を生きてほしいのだろう? いい学校を出ていい会社に入る安定した人生? 競争社会で抜きん出て経済的に豊かになる成功者の人生? けれども現在の想像力で描くそんなモデルは、子どもたちが大人になるころにはすっかり古びているかもしれません。では大切なことは何か。答えはありません。