子どもの塾や習い事について「みんなやっている」「今どきは英検やプログラミングぐらいやらないと」と聞くと、なぜ不安をあおられてしまうのか。関西学院大学の社会学部教授、貴戸理恵さんは「実際にはそんな親子は少数派のはずで、『競争社会を勝ち抜く子どもを育てようと決めた“意識の高い人たち”はやっている』という意味。個人として勝ち上がることを是とする市場的価値への同調を迫っている」という――。(第3回/全3回)

※本稿は、貴戸理恵『10代から知っておきたい あなたを丸めこむ「ずるい言葉」』(WAVE出版)の一部を再編集したものです。

競争に引きこむ言葉

塾や習い事をめぐる「ママ」同士の会話は、緊張感に満ちています。だれしも興味のある話題でありながら、家庭の教育方針や経済事情、子どものパフォーマンスの優劣などが関わってくるため、的確に情報交換しつつ踏みこみすぎないように、気を使わなければならないからです。

現代の日本社会では、多くの母親が仕事を持っているとはいえ、性別役割分業は根強く残っており、現実にはまだ子どもの習い事は「ママ」の領分です。地域の教室の評判について情報収集し、我が子の気持ちや適性を見定め、送り迎えのスケジュールを調整するために、多くの母親が奮闘しています。

そうしたなかで「今どきは○○くらいできなきゃ」といわれたら、「出遅れたかな。うちの子にもやらせたほうがいいのかな」と焦りや不安を感じてしまうかもしれません。でも、少し立ち止まって考えてみましょう。

一見するとこの言葉は、「みんなやっているのだからあなたもやらなければ」という同調圧力に見えます。ですが、ここでいう「みんな」は、たとえば「みんなが迷惑してるよ」というときのような、個人を飲みこむのっぺりしたひとかたまりの集団を差しているわけではありません。

この小学校も、「子どもたち全員が英検5級を受ける」とか「保護者全員が子どもにプログラミングを習わせている」というわけではないでしょう。実際にはそんな親子は少数派のはずです。では「みんなやっている」とはどういうことかといえば、それは、競争社会を勝ち抜く子どもを育てようと決めた「意識の高い人たち」はやっている、という意味にほかなりません。そういう一部の人たちをあえて「みんな」と呼ぶことで、「意識の低い普通の人たちとはちがう」と自分を特別な存在に見せているといえます。

つまり、「今どきは○○くらいできなきゃ」という言葉は、集団への同調ではなく、むしろ集団を抜け出して個人として勝ち上がっていくことを是とするような市場的価値への同調を迫っているのです。