美男子で知られ、武将としても強かったとされる彦根藩主井伊家の祖・井伊直政。経営史学の視点から徳川家臣団について研究する菊地浩之さんは「直政は、家康にとって大事な合戦では意外なほど戦っていない。むしろ和睦の使者になるなど文官として働いており、“戦の申し子”というのは後世に創られたイメージではないか」という――。

※本稿は、菊地浩之『徳川十六将 伝説と実態』(角川新書)の一部を再編集したものです。

図版=永嶌孟斎「徳川家十六善神肖像図」(部分)
永嶌孟斎「徳川家十六善神肖像図」(部分)(図版=国立国会図書館デジタルコレクション

現在の浜松市にある井伊谷に生まれ、父は今川家に殺された

井伊兵部ひょうぶの少輔しょう直政(1561~1602)は、幼名を万千代、通称を兵部少輔といい、家康より19歳年下で、「徳川四天王」「三傑」の1人。

遠江国引佐郡井伊谷(浜松市北区引佐いなさ伊谷いのや)を11世紀初頭から代々治める国人領主・井伊家に生まれた。徳川家よりも由緒ある名門家系で、父・井伊肥後守直親が家康に内通した疑いにより今川家に殺害されてしまい、幼少期を寺で過ごした。天正3(1575)年2月に浜松で鷹狩りをしていた家康に見出され、小姓に召し抱えられた。

天正年間に初陣をかざり、天正10(1582)年6月の本能寺の変の際には、堺見物から伊賀越えに至るまで、小姓として家康に付き従った。同年の甲斐侵攻に三陣。旧武田家臣の徳川家への帰属交渉に手腕を発揮し、小田原北条家との講和の使者となった。旧武田家臣を多く附けられ、同家中の「山県やまがた昌景まさかげ)の赤備あかぞなえ」を継承して、全軍朱の甲冑をまとった「井伊の赤備え」をつくった。

天正12(1584)年の長久手の合戦で、三好秀次(のちの豊臣秀次)軍を急襲して赤備え軍団が鮮烈なデビューを飾り、直政は「赤鬼」と恐れられた。

天正18(1590)年の小田原合戦に参陣し、合戦後の関東入国で徳川家中筆頭の上野箕輪12万石に封ぜられた。

関ヶ原の合戦で先陣を切ったが島津軍を追って負傷

慶長5(1600)年9月の関ヶ原の合戦では、家康の四男・松平薩摩守忠吉(直政の娘婿)に附いて先陣を切ったが、島津軍の敗走を追って鉄砲きずを受けた。

合戦後に近江国佐和山18万石に転封された(のち彦根に移った)が、前述の鉄砲疵がもとで、2年後の慶長7(1602)年に死去した。享年42。

直政の死後、長男・井伊兵部少輔直勝(1590~1662)が跡を継ぎ、彦根城を築いたが、病弱ゆえに廃嫡され、元和元(1615)年に次男・井伊掃部頭かもんのかみ直孝(1590~1659)が家督を継いだ。直孝は幕閣で重きをなして30万石に加増され、幕府からの預かり分も含めて近江彦根藩35万石と称した。幕末の当主、大老・井伊掃部頭直弼は日米修好通商条約を締結して横浜を開港し、安政の大獄を起こしたことでも有名である。

井伊家は江戸開府以来、一度も転封を経験したことがない譜代大名としては珍しい家系である。それは、西国大名が蜂起して徳川将軍家に一大事が起こった場合に、譜代の筆頭として先鋒を承るからだといわれている。そのため、他家からの養子を迎えることがタブーとされ、現当主(井伊直岳氏・彦根城博物館館長)が井伊家400年の歴史で初めての婿養子だという。