反省したのか第二次天正伊賀の乱では大軍を率いて勝利
この第一次天正伊賀の乱の敗戦と信長の叱責が、信雄の「愚将」イメージに大きな影響を与えていると推測されます。信長のキツい叱責に信雄は反省したのでしょうか、親子の縁は切られることはありませんでした。そればかりか、天正9年(1581)9月には、信雄を伊賀国に差し向けています。息子にリベンジの機会を与えたと言えるでしょう。大軍をもって、伊賀に侵攻した信雄は、敵方を次々と討ち破り、伊賀平定に成功したのです(第二次天正伊賀の乱)。信長も戦果に満足したはずですし、信雄も雪辱を晴らした気分だったと思われます。
しかし、その翌年(1582年)6月、信長は本能寺の変で、家臣・明智光秀により、討たれてしまいます。信長没後、光秀を討ち、天下の覇権を握ろうとしたのは、羽柴秀吉でした。当初は秀吉と組んで、弟・織田信孝(信長の3男)を没落させた信雄ですが、天下人たらんとする秀吉との関係は徐々に悪化していきます。
小牧長久手の合戦で信雄は家康よりも先に秀吉に降伏
秀吉と疎遠になった信雄が接近したのが、徳川家康でした。信雄と家康は共謀し、ついに秀吉との戦い(小牧長久手の合戦)に踏み出すのです(1584年)。『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)には、小牧長久手の戦の際に、何かヘマをしたとか、右往左往したなどの記述はありません。
『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)には、家康が信長との旧好を重んじ出馬したことを、信雄は涙を流して喜んだと記しています。同書も信雄の戦にまつわるミスなどは記してはいませんが、信雄が家康よりも先に秀吉に降伏してしまったことを、少し批判しているかのような文言は見えます。