石田三成と大谷吉継の間に性的な関係はあったのか

秀吉と三成の関係が出たところで、三成自身の男色についても触れておこう。

寛永7年(1630)生まれの貝原益軒が書いた『朝野雑載』には、三成が小幡助六(信世)なる「勝れたる美童」を寵愛した話が見える。

(小幡)助六は勝れた美童であったので、三成はこれを見て大いに悦び、たちまち召しかかえて寵愛を深くした。もともと助六は才智を備え、忠義を専らとする者であるから、三成は段々と取り立てて、領地に二千石を与え、近臣の総頭を申し付けた。

いうまでもなく信憑性の高い史料ではない。同書は三成と大谷吉継の関係にも「男色の艶契」があったとしている。

落合芳幾 画『太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆』、19世紀
落合芳幾 画『太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆』、19世紀(写真=東京都立図書館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦前夜、吉継は上杉討伐に向かう家康軍に参陣すべく伏見を出た。しかしその前に秀吉の左右に近侍した頃から、「男色の艶契」にあった三成に一度会っておくべきだと考え、佐和山城に立ち寄った。すると三成はともに家康を打倒すべきだと説いて、吉継を味方につけた。

同時期、元禄9年(1696)成立の『武功雑記』にも次のように記される。

石田治部少輔は、たびたび大谷刑部少輔に叱られ、または頭を張られることもあった。石田は大谷に恋慕して知音になった。それからは頭を張られても、かたじけないと言わんばかりに持てなした。

二人の関係に性的なものがあったことが示唆されている。

大谷吉継は若い頃から重病だったことから考えると…

だが吉継は天正14年(1586)の段階で「大谷起之介(吉継)ト云小姓衆、悪瘡気ニツキ」(『多聞院日記』)と記録されており、若い頃から皮膚に重病を患っていた。吉継には複数の子息がいる(実子でない説もある)が、武家の生殖は政治であり、快楽のみを目的でなされるものではなかったから、病苦を押してでも行う必要があっただろう。しかし男色はどうであろうか。医学の発達した現代ならともかく、この時代に重病を煩いながら知音を楽しむ欲求が生まれえたかどうか、よく考えなければならない。

三成には複数の男色話があるものの、真実味では決め手に欠けているのである。

秀吉に立ち返ってみると、男色に興味のない主君だったが、多くの若者を「子飼い」の武将として手元で育て、大名に取り立てた。名を上げれば加藤清正や福島正則、大谷吉継、その他数多くいて把握しきれないほどである。