徳川家の治世、江戸時代の本では秀吉は悪く描かれた
ふたつ目は『陰徳太平記』である。巻69「吉川経言毛利秀包被上大阪事」にも秀吉が美少年を好んだ話が見える。大坂へ上がった小早川隆景が同行する毛利秀包をしばらく大坂に留めたい旨を伝えると、秀吉は「男色美麗」に「耽る心」があったため、喜んだという逸話がある。
のちに毛利秀包は秀吉の意向で大名に取り立てられたが、同書は登場人物たちを記主の考える歴史観および道徳観に基づく言動をしてみせる傾向が強く、この逸話も信用できるものではない。
明治の学者・南方熊楠も「秀吉と織田信忠は念者」と書いた
もうひとつ。南方熊楠が「織田信忠は秀吉を念者とし、特に懇意なり」と書き、菊池寛も『太閤記』等に織田信忠と秀吉の男色があることが記されていると語っている。主君・信長の長男である信忠と肉体関係にあったというのだ。
だが、『太閤記』と題する文献は複数あり、その代表的な『甫庵太閤記』および『川角太閤記』等初期のものにそうした記録は見られない。
江戸時代中期以降、演劇用に成立した『絵本太閤記』やその他派生作品にあったとしても既に菊池寛が指摘するように「信長信忠父子の死後、息子の信考と男色関係にあった柴田勝家が、信忠の子息を取り立て争う」ストーリーを演出するため創作されたものであろう。
もちろんその他の史料を眺めても信忠と秀吉の特別な関係を見いだせず、信長は秀吉の容姿について「禿鼠」とコメントしており、宣教師たちも醜悪な見た目であったと伝えている。なのに信長が、成り上がりの家臣に大切にする長男に抱かせてよしとするようにも思われない。
ここはやはり『老人雑話』に見える人物像がしっくりくる。秀吉の関心は女性にしか向かなかったのであろう。