豊臣秀吉は正妻の北政所、側室の淀君のほか、たくさんの女性に手を出したことで有名だ。『戦国武将と男色』などの著書がある歴史研究家の乃至政彦さんは「歴代の大河ドラマでも描かれてきたように、秀吉は根っからの女好きで、戦国武将の多くが嗜んでいた男色(少年愛)には手を出さなかったと言われる。しかし、江戸時代以降の近世史料では、現在と違い、なぜか秀吉の男色にまつわるエピソードが少なからず描かれてきた」という――。
歌川豊宣 作「新撰太閤記 奥方於八重」(部分)[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]
歌川豊宣 作「新撰太閤記 奥方於八重」[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]

「ニヤける」も衆道用語、男色が盛んだった戦国時代

前近代の文献において、男色は「なんしょく」と読む。「だんしょく」ではない。明治期の文献に出てくる「美男子」が「びだんし」ではなく、「びなんし」と読まれていたのを考えれば、理解できるだろう。ついでに「衆道」も本来は「しゅどう」である。「しゅうどう」ではない。ちなみに「ニヤける」という言葉を漢字にすると、「若気る」と書き、少年に色気を見て笑みが溢れる様子を示す。豆知識として覚えておくと何かとお得かもしれない。

今回は、戦国の逸話を集めた近世史料の『老人雑話』から豊臣秀吉に関連する男色の逸話を拾いだしてみよう。

羽柴長吉は太閤(豊臣秀吉)の小姓、比類なき美少年なり。太閤ある時、人なき所にて近く召す。ひごろ男色を好み給はぬ故に、人みな奇特の思ひをなす。太閤問ひ給ふは、汝が姉か妹ありやと。長吉顔色好き故なり。

ちょっとした笑い話である。

男色に興味のないはずの秀吉が美少年を呼び寄せて、二人だけになった。はて、殿下にそのような趣味はないはずだが――人々が首を傾げあっていたら、なんのことはない。秀吉はこの美少年に「お前に姉か妹はいないか?」と尋ねたのだというオチである。

逆に秀吉が女性オンリーなことを不思議がられていたか

小姓には実在のモデルがいたと思われるが確かなことはわかっていない。京極氏の諸系図を見ると、京極高知の娘が「豊臣家の臣羽柴長吉」の室となっていて、注目される(『寛政重修諸家譜』『系図纂要』)。現在のところは、長谷川秀一の息子秀弘のことと推定されている(谷徹也「書評 黒田基樹著『羽柴を名乗った人々』」/大阪歴史学会『ヒストリア』263号、2017)。

逸話の出典となる『老人雑話』は、儒者・江村専斎が口述した逸話によって構成された随筆集で、まるっきり創作の話とも思われない。

この手の笑いを誘う逸話は信を置けないものが多いが、語り部の専斎は武田信玄や織田信長が威を振るっていた永禄8年(1565)の生まれで、戦国の生き証人である。秀吉と小姓のやりとりも作り話とは決めつけられない。

逸話が事実かどうかはともかく、「こんな話が伝わったのは、当時の武家社会では女色オンリーの性欲が異端視されていたからだ」という主張がある。

さらには「秀吉は生まれながらの武士でなかったから、男色に馴染みがなかった」と史料にない説明が付け加えられることもある。

戦国武将に仕えた色小姓は現代の美人社長秘書ポジション

一見、説得力があるが、現代でもアイドルという業態(アイドルそのものではなく、その社会的な役割)に好悪の反応があるように、当時は男色に興味のある庶民もいれば、否定的な武士もいたことを思うと、根拠のない想像は控えたほうがいいように思われる。

むしろ男色に興味がないはずの秀吉のもとに美しい小姓がいた意味を考えるべきではないか。天下人や大名のもとには、男色に関係なく小姓を側に置いたのである。成り上がりの社長の一部が、美しい秘書を手元に置くような意識に近かったかもしれない。

ともあれ秀吉が女色一筋で、男色に関心がなかったというイメージは古くから定着していたようだ。

JR長浜駅東口。観音寺での豊臣秀吉と石田三成の出逢いの「三献の茶」の逸話に基づいた像。
写真=滋賀県提供
JR長浜駅東口。観音寺での豊臣秀吉と石田三成の出逢いの「三献の茶」の逸話に基づいた像。

美少年の石田三成が秀吉に寵愛されて出世したという異聞

それでも秀吉が男色趣味に親しんだとする異聞が三つほど存在する。

ひとつは石田三成が秀吉に男色の寵愛を受けて出世したという、『石田軍記』の話である。

或時、秀吉公参詣の折節に御覧じて、挙動艶に立居他に勝れて見えければ、即ち召して夜閨を同うし、玉枕を比べさせ給ひ、周の慈童、韓の東野が振舞を作しにける。

気になる信憑性のほうだが、同書は三成が直江兼続と組んで家康を倒し、上杉景勝も暗殺して天下を分け合おうとする謀略が描かれている。この時点で察しが付くであろう。

同書のタイトルからは三成を称える内容が想像されるが、実際には神君・徳川家康公に楯突いた三成を非難し、人格を貶める内容となっている。史書というよりは文学作品に近い。面白い物語を豊富に揃えた小説の一種で、この逸話も創作話と断じていい類いのものである。

徳川家の治世、江戸時代の本では秀吉は悪く描かれた

ふたつ目は『陰徳太平記』である。巻69「吉川経言毛利秀包被上大阪事」にも秀吉が美少年を好んだ話が見える。大坂へ上がった小早川隆景が同行する毛利秀包をしばらく大坂に留めたい旨を伝えると、秀吉は「男色美麗」に「耽る心」があったため、喜んだという逸話がある。

のちに毛利秀包は秀吉の意向で大名に取り立てられたが、同書は登場人物たちを記主の考える歴史観および道徳観に基づく言動をしてみせる傾向が強く、この逸話も信用できるものではない。

明治の学者・南方熊楠も「秀吉と織田信忠は念者」と書いた

もうひとつ。南方熊楠が「織田信忠は秀吉を念者とし、特に懇意なり」と書き、菊池寛も『太閤記』等に織田信忠と秀吉の男色があることが記されていると語っている。主君・信長の長男である信忠と肉体関係にあったというのだ。

織田信忠画像
『織田信忠像』総見寺蔵(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

だが、『太閤記』と題する文献は複数あり、その代表的な『甫庵太閤記』および『川角太閤記』等初期のものにそうした記録は見られない。

江戸時代中期以降、演劇用に成立した『絵本太閤記』やその他派生作品にあったとしても既に菊池寛が指摘するように「信長信忠父子の死後、息子の信考と男色関係にあった柴田勝家が、信忠の子息を取り立て争う」ストーリーを演出するため創作されたものであろう。

もちろんその他の史料を眺めても信忠と秀吉の特別な関係を見いだせず、信長は秀吉の容姿について「禿鼠」とコメントしており、宣教師たちも醜悪な見た目であったと伝えている。なのに信長が、成り上がりの家臣に大切にする長男に抱かせてよしとするようにも思われない。

ここはやはり『老人雑話』に見える人物像がしっくりくる。秀吉の関心は女性にしか向かなかったのであろう。

石田三成と大谷吉継の間に性的な関係はあったのか

秀吉と三成の関係が出たところで、三成自身の男色についても触れておこう。

寛永7年(1630)生まれの貝原益軒が書いた『朝野雑載』には、三成が小幡助六(信世)なる「勝れたる美童」を寵愛した話が見える。

(小幡)助六は勝れた美童であったので、三成はこれを見て大いに悦び、たちまち召しかかえて寵愛を深くした。もともと助六は才智を備え、忠義を専らとする者であるから、三成は段々と取り立てて、領地に二千石を与え、近臣の総頭を申し付けた。

いうまでもなく信憑性の高い史料ではない。同書は三成と大谷吉継の関係にも「男色の艶契」があったとしている。

落合芳幾 画『太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆』、19世紀
落合芳幾 画『太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆』、19世紀(写真=東京都立図書館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦前夜、吉継は上杉討伐に向かう家康軍に参陣すべく伏見を出た。しかしその前に秀吉の左右に近侍した頃から、「男色の艶契」にあった三成に一度会っておくべきだと考え、佐和山城に立ち寄った。すると三成はともに家康を打倒すべきだと説いて、吉継を味方につけた。

同時期、元禄9年(1696)成立の『武功雑記』にも次のように記される。

石田治部少輔は、たびたび大谷刑部少輔に叱られ、または頭を張られることもあった。石田は大谷に恋慕して知音になった。それからは頭を張られても、かたじけないと言わんばかりに持てなした。

二人の関係に性的なものがあったことが示唆されている。

大谷吉継は若い頃から重病だったことから考えると…

だが吉継は天正14年(1586)の段階で「大谷起之介(吉継)ト云小姓衆、悪瘡気ニツキ」(『多聞院日記』)と記録されており、若い頃から皮膚に重病を患っていた。吉継には複数の子息がいる(実子でない説もある)が、武家の生殖は政治であり、快楽のみを目的でなされるものではなかったから、病苦を押してでも行う必要があっただろう。しかし男色はどうであろうか。医学の発達した現代ならともかく、この時代に重病を煩いながら知音を楽しむ欲求が生まれえたかどうか、よく考えなければならない。

三成には複数の男色話があるものの、真実味では決め手に欠けているのである。

秀吉に立ち返ってみると、男色に興味のない主君だったが、多くの若者を「子飼い」の武将として手元で育て、大名に取り立てた。名を上げれば加藤清正や福島正則、大谷吉継、その他数多くいて把握しきれないほどである。

秀吉は子飼いの若者たちを男色と関係なく取り立てた

もちろん豊臣子飼いの武将たちはいずれも秀吉と男色の関係にはなかった。それでも彼らは主君の厚意を後ろ盾に華々しく出世し、恩義に報いるべく必死になって忠節を尽くした。近侍する少年に自身の世話をさせ、立派に育てた後、高い身分に出世させる――構図的には足利義満やその他の大名と何ら変わるところのない人材登用術である。

芳虎 画『繪本太閤記』初編,松延堂伊勢屋庄之助,[1871]. 国立国会図書館デジタルコレクション
芳虎 画『繪本太閤記』初編,松延堂伊勢屋庄之助,[1871]. 国立国会図書館デジタルコレクション

秀吉の例を見てもわかるように、男色など介在せずとも子飼いの家臣を育てることはできた。特別の贔屓で取り立てられた家臣の出世を、安易に性愛の賜物に結びつけるべきではないだろう。

もしそこに何かがあったとしても、個人同士の秘めたる関係である。文献に伝わる関係は大半が、対象人物を嘲笑うために創作された内容だ。これらを情報源として、あの2人の関係は「史実」だと指差していては、ゴシップ紙の記事を信じる人々を笑えなくなるだろう。