「ニヤける」も衆道用語、男色が盛んだった戦国時代
前近代の文献において、男色は「なんしょく」と読む。「だんしょく」ではない。明治期の文献に出てくる「美男子」が「びだんし」ではなく、「びなんし」と読まれていたのを考えれば、理解できるだろう。ついでに「衆道」も本来は「しゅどう」である。「しゅうどう」ではない。ちなみに「ニヤける」という言葉を漢字にすると、「若気る」と書き、少年に色気を見て笑みが溢れる様子を示す。豆知識として覚えておくと何かとお得かもしれない。
今回は、戦国の逸話を集めた近世史料の『老人雑話』から豊臣秀吉に関連する男色の逸話を拾いだしてみよう。
ちょっとした笑い話である。
男色に興味のないはずの秀吉が美少年を呼び寄せて、二人だけになった。はて、殿下にそのような趣味はないはずだが――人々が首を傾げあっていたら、なんのことはない。秀吉はこの美少年に「お前に姉か妹はいないか?」と尋ねたのだというオチである。
逆に秀吉が女性オンリーなことを不思議がられていたか
小姓には実在のモデルがいたと思われるが確かなことはわかっていない。京極氏の諸系図を見ると、京極高知の娘が「豊臣家の臣羽柴長吉」の室となっていて、注目される(『寛政重修諸家譜』『系図纂要』)。現在のところは、長谷川秀一の息子秀弘のことと推定されている(谷徹也「書評 黒田基樹著『羽柴を名乗った人々』」/大阪歴史学会『ヒストリア』263号、2017)。
逸話の出典となる『老人雑話』は、儒者・江村専斎が口述した逸話によって構成された随筆集で、まるっきり創作の話とも思われない。
この手の笑いを誘う逸話は信を置けないものが多いが、語り部の専斎は武田信玄や織田信長が威を振るっていた永禄8年(1565)の生まれで、戦国の生き証人である。秀吉と小姓のやりとりも作り話とは決めつけられない。
逸話が事実かどうかはともかく、「こんな話が伝わったのは、当時の武家社会では女色オンリーの性欲が異端視されていたからだ」という主張がある。
さらには「秀吉は生まれながらの武士でなかったから、男色に馴染みがなかった」と史料にない説明が付け加えられることもある。