中世の遊女には現在の芸能人に近いステイタスがあった
そうして、祇王は泣く泣く清盛の屋敷を出ていくわけですが、そんな祇王を周囲の貴族たちが次々に口説きにかかるわけです。ところが祇王にはもうそんなことはたくさんだと、貴族たちの申し出を断ってしまう。やはりそこには清盛に対する一途な思いがあったのかもしれません。
あるいは「平家にあらずんば人にあらず」とまで称されるほどに栄華を誇った、平家の長である清盛の寵愛を一度は受けた自分であるから、そこらの貴族に靡くわけにもいかないという女のプライドもあったのかもしれません。そこで祇王は仏門に帰依したのでした。
それだけ、やはり当時の遊女というのは、遊女としての誇りを持っていたのだろうと思います。
中世の遊女は社会的な認識においても、自己認識においても、ある種の高貴さを漂わす存在としてあったわけですが、それが近世以降になってくると、どちらかといえば蔑まれる職業・対象としての色合いが濃くなってきます。
西洋から梅毒が入ってきて、遊女は蔑まれる存在に転落
中世の遊女と近世以降の遊女を隔てる決定的な違いは何かというと、中世の頃にはまだ生命に関わる性病、具体的には梅毒が存在しないことが、非常に大きかったと思われます。
梅毒がヨーロッパにもたらされたのは、コロンブスがアメリカ大陸に到達した1492年以降のことです。その後、戦国時代に入って南蛮貿易を通じ、西洋人の往来が始まると、たちまちに日本でも梅毒が広まっていったのでした。
つまり、中世においては梅毒の心配は全くない。性愛を謳歌するという意味では、病気の恐れがないという点は非常に大きなことだったろうと思います。また、梅毒は末期になると梅毒の菌が体を侵し、鼻が落ち、顔が崩れてしまいます。見るからにひどい姿になってしまう。だから遊女のような職業に就いている人間は罰当たりなんだというふうに差別意識を持って言われるようになったのは、梅毒が日本にやってきた戦国時代以降、とりわけ近世に入ってからのことなのです。
用心深い徳川家康などは、病気を恐れて遊女との接触を自らに禁じていたといいます。逆に言えばそれ以前、中世の遊女には、梅毒によって顔が崩れたりということはありません。それゆえに、男女は性を謳歌し、遊女は高貴な人間たちから慕われ、氏素性が知れないにもかかわらず、玉のこしに乗るなんていうこともあったわけです。そして、そうした遊女というのは、自らに対してある種の誇りを持っていた存在だったと言えます。