※本稿は、本郷和人『恋愛の日本史』(宝島社新書)の一部を再編集したものです。
鎌倉時代までの遊女は天下人の母にもなれた
中世における女性の力というものを考えたとき、より外部的な存在でありながらも、ある種のワイルドカードのような力を持っていたのが、遊女たちでした。母親の実家、つまり母親の出自が重視された時代にありながら、遊女たちは出自に関係なく、権力者に気に入られれば、こうした身分秩序を一足飛びにして、大きな影響力を持つことができたのです。そのため、貴族の跡取りで、母親が遊女だったという例は少なくありません。
源義朝の長男である源義平は、いわゆる「悪源太義平」と呼ばれる武士で、彼の母親は三浦半島の橋本宿にいた遊女だと言われています。
そうなると、頼朝の兄弟たちというのは、長男の悪源太義平の母は橋本宿の遊女。次男・朝長の母は相模国の有力武士の娘、そして三男の頼朝の母は熱田大宮司の娘、というように、遊女・武士・貴族とそれぞれ違う身分の母を持っていたということになります。この場合、結局、貴族の娘を母に持つ頼朝が、三男ながら後継に選ばれているのですから、遊女を下に見る向きもあったとも言えますが、それでも遊女の子が跡取りとなった事例もあります。
たとえば、従一位太政大臣にまで出世した、れっきとした貴族である徳大寺実基は、母が遊女(白拍子)だったとされていますし、平清盛に至っては、白河法皇と白拍子の間に生まれたご落胤だったという説もあります。
このように近世以前の遊女というのは、現代で言えば芸能人に近い存在で、歌や踊りに秀でて、その上、美貌を持っているという特別な才能を有する人たちだと考えられています。いわば、実力でのし上がってきた女性たちなのです。
平清盛が白拍子をチェンジした有名なエピソード
『平家物語』のなかでは、平清盛が祇王という遊女を世話して、屋敷に住まわせている様子が描かれています。そこへ仏御前という別の遊女がやってくるのですが、清盛としては自分にはすでに祇王という愛人がいるわけで、仏御前を屋敷から追い出そうとします。
しかし、同じ遊女の祇王が情けを見せて、そんなことを言わずに歌を聴いてやってくれ、踊りを見てやってくれと懇願したので、清盛は仏御前に芸を披露させたのです。すると、その素晴らしさに清盛は心変わりして、仏御前を屋敷に置き、今度は祇王に対して「出て行け」なんて言う、とんでもないエピソードです。