9年間、毎週末大阪の実家に通い続けた

介護の始まりから今年で9年、北沢さんは毎週末、東京・大阪間を移動し、仕事をしながら遠距離介護を続けている。

「仕事を終えて金曜の夜に東京を出て、実家には深夜12時に着いて、日曜日の夜8時半の新幹線でこっちへ帰って来る。東京の自宅に帰るのは深夜です。向こうではずっと、母親の世話をして、日持ちするようなおかずを何品か作って。夫の理解と支えがあったから、できたと思います。子どもがいたら、無理でした」

コロナ前は、海外出張も頻繁にあった。土日に母の世話をして、月曜日に関空から海外の支店に行き、金曜日に関空に戻って大阪の実家へ向かうという、東京と大阪の完全な二重生活を余儀なくされた。

スーツケースを手にプラットフォームで電車を待つ人
写真=iStock.com/structuresxx
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北沢さんがこうして毎週、母親と週末を過ごすという生活のリズムができたことが功を奏したのか、母親の認知症は進むどころか、むしろ良くなる傾向が見られた。

「精神科の先生に、認知症はそんなに進んでいないと言われました。私が毎週、顔を見せるという動きで生活のリズムができて、おかげで比較的、安定しているのかもしれないと」

世はコロナ、緊急事態宣言も出された。北沢さんは介護をどうするか、夫と相談した。

「夫は、母親がひどい状態にならずに済んでいるのは、私が行っているからだろうって。『じゃあ、コロナには気をつけながら、続けるよ』と。主人もそうした方がいいってことで、その当時は新幹線の車両に私一人しかいないということもありました」

9年間、一度だけ、体調を崩して行けないことがあった。その時は夫が代わりに大阪へ行き、おかずを作るなどをしてくれた。

平日の朝、一人家で倒れた母

だが、何とか良いリズムを作ることができた期間は、そう長くはなかった。

母親が平日の朝、家で倒れていたことが2回続いたため、自宅を中心とした介護が難しいと判断され、「小規模多機能型施設」での宿泊を中心とした介護へと切り替えることとなった。月曜から金曜までその施設で過ごし、食事や入浴の介助を受け、土日に自宅への送迎を受け、北沢さんと一緒に過ごすという生活となった。

その後、ガンが発見されて治療のために入院。そのため今回、北沢さんと土曜日に東京での取材が可能となったのだ。

「コロナで、入院中は会えないんですよ。認知度が下がったらどうしようと思っていたら、先週、会えたんです。『あんた、元気にしてるか。年行くと、こんなことになんねんな』って。全然、大丈夫でした。大事さえなければ、このまま行けると思いました」