困った人がいたら親を扱うように扱え
休日らしいラフな服装でありながら、その女性のまなざしには意志の力が宿っていた。北沢由梨さん(仮名)。ふっと浮かんだ飾らない笑顔に、率直な人柄がにじみ出る。
北沢さんは、アシスタンスを行う企業の役員だ。
アシスタンスは「援助」を意味する英単語でその名の通り、顧客のニーズに応じた援助を行う業務だ。例えば海外旅行中にケガをしたり病気になった時に、医療機関の紹介や受診の手配、通訳等のサービスを提供したりする緊急支援サービスがある。他には海外でのレストラン予約などコンシェルジュサービスを提供することで、海外旅行をより楽しんでもらえるように援助するサービスもある。このように、保険の顧客やクレジットカード所有者が世界中どこにいても、何か困ったときや助けが欲しいときに、解決の手助け(アシスタンス)を専門に担う企業だ。日本での認知度はまだ低いが、欧米では当たり前の業種として存在している。
北沢さんは自身の職業への誇りを隠さない。
「私は自分の出世とか収入よりも、こういう会社があるということを世間の人にわかってほしいという、認知度を上げていきたいという思いが強いです。社会貢献性が高い仕事であることは、間違いないわけですから。前社長は、『困った人がいたら、親を扱うように扱え』という考えの方でした。『民間の大使館になりたい』と常に言っていましたし」
50代はほぼ遠距離介護に明け暮れた
北沢さんがこの仕事に就いたのはイギリスの地において、30代半ばの頃だった。40代半ばで日本に戻ってきてからは今の会社で、確固とした信念を持ち、仕事に携わってきた。当初よりスーパーバイザーやマネジャーという管理的立場に立ち、さまざまな状況に立ち向かう現場の指揮を取ってきた。今は管理業務ゆえ、現場に立てないもどかしさも感じている。
とはいえ、緊急性を伴わない今の仕事のおかげで、降って湧いたように始まった、母親への介護を続けることができたのかもしれない、と振り返る。
北沢さんの50代はほぼ、大阪に一人で住む母親への遠距離介護に費やされたと言っていい。
「母親は今、92歳です。始まりは9年前、その時はまさか、こんなに長く続くとは思いもしませんでした」
83歳の母は骨折で2カ月入院、要介護5に
それは、春のお彼岸で帰省していた北沢さんの目の前で起こった。当時、母親は83歳。
「土曜日にゴミを出そうとした母親が、家の玄関で転び、大腿骨骨折をしたのです。後になって、『土曜日って、ゴミを出す日じゃないのに』って、気づいて。その時から認知症が始まっていたのかもしれません」
ここが、介護の始まりとなった。母親は骨折で2カ月入院することとなり、退院時に「要介護5」という判定が出た。退院後は、北沢さんが様子を見に帰りながら、一人で生活することとなった。だが1カ月後、家で尻もちをつき腰を圧迫骨折し、再度、入院となった。
「この病院のソーシャルワーカーが、『要介護5が出ているのだから、すぐに介護サービスを使うように』とアドバイスしてくれて、ケアプランセンターを紹介してもらい、家に手すりをつけるなど、ここから介護サービスを利用するようになりました」
そもそも介護サービスに何のプランがあるなんて、必要に駆られなければ知る由もない。まして介護自体、どのようなシステムで成り立っているのかも。北沢さんには、何もかも初めてのことだった。
ケアマネジャーなどと相談して作り上げた母親の介護プランは週3回、午前と午後にヘルパー、週1回、訪問看護師が家に入り、週3回、デイサービスに出向くというものだった。
自宅を中心にした生活だが、毎日誰かが母親の状況を確認し、着替え、食事などの介助を行うという見守り体制が構築された。そして週末は北沢さんが東京から大阪に出向き、母親と家で過ごすという「日常」が始まった。
施設入所に激しく抵抗
母親をめぐる介護体制が出来上がった頃、せん妄や幻聴が見られたため、MRIを撮ったところ、海馬の萎縮が見られ、アルツハイマー型の認知症が始まっていることが確認された。
一時、せん妄が顕著になったため、ケアマネジャーと施設入所を検討し、運良く空きが出たものの、母親が施設入所に難色を示し、激しく抵抗したため断念、同じ生活を続けることとなった。
病院の受診は当初、母親をタクシーに乗せて連れて行っていたが、待合室の混雑が腰の圧迫骨折を持つ母親には耐えられないと判断し、以降、北沢さんが代理診察を行っている。
9年間、毎週末大阪の実家に通い続けた
介護の始まりから今年で9年、北沢さんは毎週末、東京・大阪間を移動し、仕事をしながら遠距離介護を続けている。
「仕事を終えて金曜の夜に東京を出て、実家には深夜12時に着いて、日曜日の夜8時半の新幹線でこっちへ帰って来る。東京の自宅に帰るのは深夜です。向こうではずっと、母親の世話をして、日持ちするようなおかずを何品か作って。夫の理解と支えがあったから、できたと思います。子どもがいたら、無理でした」
コロナ前は、海外出張も頻繁にあった。土日に母の世話をして、月曜日に関空から海外の支店に行き、金曜日に関空に戻って大阪の実家へ向かうという、東京と大阪の完全な二重生活を余儀なくされた。
北沢さんがこうして毎週、母親と週末を過ごすという生活のリズムができたことが功を奏したのか、母親の認知症は進むどころか、むしろ良くなる傾向が見られた。
「精神科の先生に、認知症はそんなに進んでいないと言われました。私が毎週、顔を見せるという動きで生活のリズムができて、おかげで比較的、安定しているのかもしれないと」
世はコロナ、緊急事態宣言も出された。北沢さんは介護をどうするか、夫と相談した。
「夫は、母親がひどい状態にならずに済んでいるのは、私が行っているからだろうって。『じゃあ、コロナには気をつけながら、続けるよ』と。主人もそうした方がいいってことで、その当時は新幹線の車両に私一人しかいないということもありました」
9年間、一度だけ、体調を崩して行けないことがあった。その時は夫が代わりに大阪へ行き、おかずを作るなどをしてくれた。
平日の朝、一人家で倒れた母
だが、何とか良いリズムを作ることができた期間は、そう長くはなかった。
母親が平日の朝、家で倒れていたことが2回続いたため、自宅を中心とした介護が難しいと判断され、「小規模多機能型施設」での宿泊を中心とした介護へと切り替えることとなった。月曜から金曜までその施設で過ごし、食事や入浴の介助を受け、土日に自宅への送迎を受け、北沢さんと一緒に過ごすという生活となった。
その後、ガンが発見されて治療のために入院。そのため今回、北沢さんと土曜日に東京での取材が可能となったのだ。
「コロナで、入院中は会えないんですよ。認知度が下がったらどうしようと思っていたら、先週、会えたんです。『あんた、元気にしてるか。年行くと、こんなことになんねんな』って。全然、大丈夫でした。大事さえなければ、このまま行けると思いました」
毎月15万円の出費
ただし、大変なのは介護にかかる膨大な費用だ。新幹線代だけで、1カ月10万円。母親の好きな果物代、おかずを作る食料品代などで毎回3000円、向こうで北沢さんが生活する費用、そして実家の光熱費も今は北沢さんが払っている。
「だいたい、介護にかかる費用が月に13万。光熱費を入れたら、月に15万ぐらいです。母親の国民年金が月6万ちょっとですが、施設の費用が月に15万かかるんです。食事と宿泊費って介護保険から出ないので、全部、自費になるんです。何とかならないかと役所に相談したら、小規模多機能は対象外だと言われ、もう、本当にもたないというか。よく主人が黙っているなと思いますね。私の方が稼いでいるといえばそうなんですが」
宿泊も食事も、人が生きていくには必要なことだ。ここになぜ、重い負担が個人に強いられるのか、国の介護行政に大きな疑問を抱かざるを得ないが、支援も補助も望めない以上、ではどうしていくか。今、北沢さんは「メルカリ」と「ポイ活」に一生懸命取り組み、そこで細々と稼いでいると笑う。
「ほんと冗談ではなく、そっちでなんとか小銭を稼いでいかないと。東京の自宅は賃貸なので、更新料も払わないといけないですし」
介護で動けるのは自分だけ、悔いを残したくない
夫婦だけなら多少は余裕のある生活ができる収入があるにもかかわらず、北沢さんは今、八方塞がりの状況だと断言する。
「いつ終わるかもわからない介護と、その費用負担で、夫婦の老後の見通しも立たない。まさか、こんなになるとは思っていなかったし、わからないですね、そこは」
そうであっても、ここで大阪へ行く回数を減らすわけにはいかない。大阪の自宅売却も、母親が生きている間に行うのは忍びない。弟がいるが重病で障害を負い、思うように動けない。介護で動けるのは自分しかいない以上、悔いだけは残したくないと思う。
まさに八方塞がりと言いながら、タダで転ばないのが北沢さんだ。
「新幹線は、1カ月前に決めた席を取ります。車内環境を自分用にそろえないと嫌なので、決めた席でタブレットとルーターと携帯を充電できるようにして、好きな音楽を聴いて、電子書籍で読みたい本を読んで、車内は完全に自分の時間にしています。自宅にいる時は、できるだけ好きなことに没頭したいと思いますね。音楽と将棋観戦です。だから、退屈している時間なんてないですね」
どんな環境であっても腐らず、流されず、自分を手放さず、自分を大事に育てていく。それが北沢さんの倒れない、しなやかな強さの根幹にあるものなのだろうか。
どこかで抜かないと自分が壊れてしまう
もちろん、介護を巡る小さな“ヒビ”は知らないうちに堆積する。「リンゴ食べる」と言うから皮をむいて持って行くと、「こんなん、今、いらん」と突き返された時。「あんたが食べたいだけちゃうか?」と、自分のせいにされた時。
認知症ゆえと思えども、決めつけの強い語気が胸に突き刺さる。それはどこかで抜かないと、きっと自分が壊れてしまう。
だから、取材に応じたと北沢さん。
「誰か、話を聞いてくれる方に会いたかったんだと思います。悔いがないようにしたいだけで、ここまで来ちゃったんですよね」
八方塞がりだと北沢さんは状況を冷静に語ったが、実はこれから迎える60代、70代に、大きな目標を持っていた。
(後編に続く)