今も忘れられない3歳の娘の泣き声
当時としてはかなり遅めの32歳という年齢で、熊谷さんはトラックの運転手と結婚をした。ふたりの女の子に恵まれたが、生活はそれほど楽ではなく、気づけば岩手時代と同じことをやっていた。
「ずっと家にいて内職をしていましたね。編物をしたり、ネクタイを縫ったり。上の子が幼稚園に行くようになって、下の子が3歳ぐらいの頃かな。私が内職をしていると『お母さん遊ぼう、お母さん遊ぼう』って何度も言われてね、それが辛かった。いまでも時々、あの時の声が聞こえてくるんですよ」
転機がやってきたのは、下の子が小学校4年生になった頃だ。夫がトラックの仕事をやめて、近くの工場で働くことになったのだ。給料が格段によくなるはずだった。
「なんでもコンピュータを使って機械を動かす仕事みたいでしたけど、『あんなもん、覚えらんねぇ』って、たった3カ月でやめてしまったんです。こりゃ、私が働かないとどうにもならないなって……」
女性社長の営む「呉服店」に再就職
求人を探していると、ある呉服店が社員の募集をしているのが目にとまった。呉服の仕事ならよく知っている。これまた皮肉な事態だが、なんとかして抜け出したかった呉服の世界に、今度は自分の方から飛び込んで行くことになったのである。
熊谷さんが就職したのは埼玉県戸田市の「さがの苑」という呉服店だった。チェーン店の中の1店舗であり、神谷さんという同世代の女性がフランチャイジーとして社長を務めていた。
「神谷さんは三越の外商が出入りするような裕福な家で育ったお嬢さんでね、尾上松緑さんに踊りを習っているなんて言ってましたよ」
熊谷さんとはずいぶんと異なる境遇を生きてきた女性だが、なぜか、熊谷さんとは馬が合った。