15年ともに働いた戦友は、今も月一で会う親友に

反物が着物になるまでには、いくつもの加工屋の手を経なくてはならない。熊谷さんはそれぞれの工程に精通していたから、加工の流れを管理する立場に就いて呉服に詳しくない若手社員を指導することになった。やがて、お店にとってなくてはならない存在になった。

「2年間やめなかったら車の免許を取らせるって言われたんですが、本当に全額出資で免許を取らせてくれたんです。免許を取ってからは車で営業の仕事にも出してくれて、すごく楽しかった。社長が女性だったから、留守番をしている子どもから怪我をしたなんて電話がかかってくると早く帰らせてくれたりしてね。とても家庭的な雰囲気の中で、社長に面倒を見てもらいながら働くことができたんです」

呉服業界が斜陽になって社長が退店を決断するまで、熊谷さんはさがの苑で15年間働いた。正社員だったから給料もよかったし、歩合でボーナスも出た。

「神谷さんとは、いまでも月に1度は会っておしゃべりをするんです。そういう間柄になれたのは、打算とか一切なしに、一緒になって仕事をしたからだと思います。そうじゃないと、長続きはしないですよね。私は、友だちには恵まれました。身内には、あんまり恵まれなかったけどね(笑)」

不合理なことを要求してくる上司への対処法

さがの苑戸田店が閉店したとき、熊谷さんは59歳になっていた。普通なら定年退職する年齢だ。娘たちはふたりとも成人していたし、夫もまだ働いていたからそれほどお金が必要だったわけでもない。でも、熊谷さんは家にいるよりも、外で仕事がしたかった。

職安に行くと、川口キャラ(現在のイオンモール川口前川)が開店するが、テナントのひとつのラオックスという電器店が店員を募集していると教えてくれた。家電量販店は未知の世界だったが、自宅から近いこともあり、思い切って飛び込んでみることにした。採用が決まると、修理の受付や部品の取り寄せを担当することになった。

「私ね、新しい職場に行く度に必ずいい人に出会うんですよ。修理の担当をやっていた女性はずっとラオックスで働いてきた人だったけれど、すごくいい人で、手取り足取り仕事を教えてくれたんです。休みの日に一緒に遊びに行くくらい仲がよかったんですよ」

熊谷さんはなぜ、同性の同僚とうまくやっていけるのだろう。

「岩手の呉服店にいた時代、周りがすごく怖かった。なんで世の中ってこんなに怖いんだろうって思うほど怖かった。だから私、小さい時から人に反抗的な態度を取らないことを学んだんです。人に盾をつかない、強く(自分を)主張しないんです」

不合理なことを要求してくる先輩社員や上司に出会ったら?

「そういう人にも、黙って耐えます。黙って耐えながら、お付き合いをしなくても済むようにだんだん遠ざかっていくんです(笑)」

辛い半生で身についた処世術だが、筆者のように反抗ばかりして生きてきた人間には到底真似のできる生き方ではない。

「夫は仕事の愚痴を聞いてくれる人間じゃなかったから、家に帰って家事やなんかをやっているうちに嫌なことは忘れてしまうという技を身に着けたのかな。あとは、好きな歌を聴いたり、本を読んだりしてね」

ちなみに、現在の熊谷さんの趣味はボーリング。週1回「健康ボーリング」という年配者のサークルでゲームを楽しんでいるが、80代は熊谷さんただひとり。アベレージは150、最高で178を出したこともあるというから驚く。