子どもたちは素晴らしいが、母であることは正しい選択ではない

デブラ 10~14歳の2人の子どもの母

今言っておきたいことがあります。それは、私の子どもたちが素晴らしいということです。素晴らしい子どもであるだけではなく、素晴らしい人間です。人として驚くべき可能性を持っていると思います。魅力的で、才能があり、美しく、善良で──そのことと〔私の後悔に〕は、何の関係もありません。

〔母であることは〕私がなりたい立場ではないのです。〔……〕私にとって、母であることは正しい選択ではないと思います。私にとって親であることは、合理的で、理にかなった、適切な選択肢ではないのです。母になれないからではなく、自分に合わないからです。私らしくないのです。

デブラはどういう人? と尋ねられたら、母ですとは言いません。母であることに触れる前に、多くのことを言います。普段から、子どもがいるという話はまったくしません。最終的には言わざるを得なくても、すぐには言いません。それは私の定義ではないのです。

私はデブラという人間を、母や女性とは見ていません。デブラは経営幹部で、デブラは学歴を持ち、デブラはアメリカ系イスラエル人であり、デブラは妻であり、デブラは思想家であり、デブラは無宗教です──そういったすべての立場の後に、デブラが母であるという話になるのです。

少し申し訳ないですが。そういう意味では後悔があります。自分の人生と日常の機能の中で、自分らしくない場所にいるからです。でも、子どもがいることは後悔していません。なぜなら私は、本当に素晴らしい素敵な人間である2人の子どもをこの世に連れてきたからです。素晴らしい人間、素敵な人たちを。

「母」のアイデンティティ

私の研究に参加した女性の大半は、後悔は母になったことであり、子どもがこの世に存在することではないという区別を明確にしていたが、これは、子どもを生きる権利を持つ独立した別の人間と位置づけていることを示唆している。同時に彼女たちは、子どもの母になったことと、その人生に責任を持つことに後悔を感じているのだ。

オルナ・ドーナト『母親になって後悔してる』(新潮社)
オルナ・ドーナト『母親になって後悔してる』(新潮社)

したがって、母でないことへの憧れは、一般的な意味での子どもの不在を必然的に含むことは明らかだが、それは必ずしも、権利があって人として生まれた実際の子どもたちを消したいという願望を伴うわけではない。母になったことの後悔と子どもを愛することの区別は、ほんの一瞬でも、子どもたちとの間の想像上のへその緒を切り離し、「母」と「子」のアイデンティティを超えた関係を持つことを求めているのだ。

しかしこの願いは、現在の社会秩序においては通常は叶えられない。母は母であり、常に母としてのふるまいが求められ、そのアイデンティティから逃れることはできない。