※本稿は、オルナ・ドーナト『母親になって後悔してる』(新潮社)の一部を再編集したものです。
母になったことは後悔、子どもたちについては後悔していない
私がインタビューした女性の大多数が、母としての気持ちと子どもたちに対する気持ちに違いがあると強調していた。この区別については、ジェシー・バーナードの1974年の著書『母性の未来(The Future of Motherhood)』において文書化されており、この本で著者は、子どもを愛しているが母であることを嫌っていると「思い切って」認めた労働者階級と中産階級の母について言及している。私の研究に参加した母にとって、この区別は、後悔は母になったことであり、出産した子どもについては後悔していないということを明確にするのに役立っている。
シャーロット 2人の子どもの母。1人は10~14歳、もう1人は15~19歳
話は複雑なんです。私は母になったことは後悔していても、子どもたちについては後悔していません。その存在も、性格も。あの子たちを愛しています。
あんな愚かな人と結婚したけれど、後悔していません。なぜなら、他の誰かと結婚しても、別の子どもを産んで愛していたでしょうから、本当にややこしい話です。
子どもができて母になったことを後悔していますが、得られた子どもたちは愛しています。ですから、きちんと説明できることではないのです。もしも私が後悔するなら、あの子たちがいなければいい、という話になります。でも、あの子たちがいないことは望みません。私はただ、母でいたくないだけです。
ドリーン 5~9歳の3人の子どもの母
そう口に出すのは、私には難しいです。なぜなら、あの子たちを愛しているから。心から愛しています。でも、いなくても私は……。
長い間、精神分析医にかかっていました。それが、おかしなことに、私が完全に〔はっきりと〕感じる何かがあるとすれば、それは〔この〕感覚です。母になるプロセスは完了していないけれど──ここで発言していることを完全に〔明確に〕感じています。それは、子どもがいて、その子たちを愛しているけれど、いなくてもいい、という全く重ならない2つの考えを持っているということ。だから、質問に対する答えはこうです──もしも私が別の道を選べるのだとしたら、そうするでしょう。
後悔は親としてのこと、子どもの存在のことではない
リズ 1~4歳の1人の子どもの母
ちなみに、後悔は親としてのことであって、子どもの存在のことではありません。そこは私にはとても大切な区別です。
素晴らしい子なんです。信じられないほど優秀です。私自身が子育てに辛さを感じているので、そのことは幸運でした。
〔……〕もし息子がこれほど優秀ではなかったらと思うと──私の子育てがこうなので優秀になるしかなかったのでしょう。こんなことを言うのははばかられますが、もしも息子が、特別な支援を必要としたり、標準的でなかったりする子なら、今でさえ子育てに苦しんでいるのですから、さらに大変だったことでしょう。
息子のことはとても大切なので、区別をしたいのです。息子は愛すべき人間です。彼の中身や世界観、性格を知れば知るほど、そう思います──あらゆることにしっかりした意見を持ち、自信をもって表現できる子なので、私も嬉しいです。だから息子のことを深く愛しています。
でも……ここははっきりと区別したいのですが、本当に愛していて絆を感じる人の存在について──生まれてきて残念だとは言えません。息子がいることを残念には思っていないのです。
後悔は、親としてのことであって、私自身が〔母になる〕必要を感じなかったのに、こうなってしまった、という事実にあります。でも、とても合理的な決断だったのです。今になって思うと、親としてのさまざまな課題があるため、自分が心から望む場合にのみそうする〔親になる〕べきだと思います──その方が私にとって良かっただろうと思えるのです。
カーメル 15~19歳の1人の子どもの母
イドが大好きです。手のかからない子ではないけれど、素晴らしい子です。生まれた日からいくつか問題があり、これからも常にあるでしょう。でも、私たちは素晴らしい関係を築いていて、とても仲がいいですし、素晴らしい息子です。〔私の後悔は〕そのこととは何の関係もありません。完全に無関係です。
子どもたちは素晴らしいが、母であることは正しい選択ではない
デブラ 10~14歳の2人の子どもの母
今言っておきたいことがあります。それは、私の子どもたちが素晴らしいということです。素晴らしい子どもであるだけではなく、素晴らしい人間です。人として驚くべき可能性を持っていると思います。魅力的で、才能があり、美しく、善良で──そのことと〔私の後悔に〕は、何の関係もありません。
〔母であることは〕私がなりたい立場ではないのです。〔……〕私にとって、母であることは正しい選択ではないと思います。私にとって親であることは、合理的で、理にかなった、適切な選択肢ではないのです。母になれないからではなく、自分に合わないからです。私らしくないのです。
デブラはどういう人? と尋ねられたら、母ですとは言いません。母であることに触れる前に、多くのことを言います。普段から、子どもがいるという話はまったくしません。最終的には言わざるを得なくても、すぐには言いません。それは私の定義ではないのです。
私はデブラという人間を、母や女性とは見ていません。デブラは経営幹部で、デブラは学歴を持ち、デブラはアメリカ系イスラエル人であり、デブラは妻であり、デブラは思想家であり、デブラは無宗教です──そういったすべての立場の後に、デブラが母であるという話になるのです。
少し申し訳ないですが。そういう意味では後悔があります。自分の人生と日常の機能の中で、自分らしくない場所にいるからです。でも、子どもがいることは後悔していません。なぜなら私は、本当に素晴らしい素敵な人間である2人の子どもをこの世に連れてきたからです。素晴らしい人間、素敵な人たちを。
「母」のアイデンティティ
私の研究に参加した女性の大半は、後悔は母になったことであり、子どもがこの世に存在することではないという区別を明確にしていたが、これは、子どもを生きる権利を持つ独立した別の人間と位置づけていることを示唆している。同時に彼女たちは、子どもの母になったことと、その人生に責任を持つことに後悔を感じているのだ。
したがって、母でないことへの憧れは、一般的な意味での子どもの不在を必然的に含むことは明らかだが、それは必ずしも、権利があって人として生まれた実際の子どもたちを消したいという願望を伴うわけではない。母になったことの後悔と子どもを愛することの区別は、ほんの一瞬でも、子どもたちとの間の想像上のへその緒を切り離し、「母」と「子」のアイデンティティを超えた関係を持つことを求めているのだ。
しかしこの願いは、現在の社会秩序においては通常は叶えられない。母は母であり、常に母としてのふるまいが求められ、そのアイデンティティから逃れることはできない。
「母は、子どもの人生の背景にすぎない存在」
この基本的な信念の源のひとつが、20世紀に治療院に端を発し人気の論説へと発展したジークムント・フロイトの哲学である。フロイトの研究は、母はそれ自体が人ではないと主張するだけでなく、母自身はそのことについて何もできないと明確に主張している。
彼の研究では、母は他者の機能としてのみ存在する。母子の関係においての母自身の経験は常に消されているのだ。母を主体と見なさないことは、母を子どもの感情的発達の中心的で本質的な役割に充てるとともに、子どもの人生の背景にすぎない存在と位置付ける。母は、存在すると同時に存在しないものなのだ。
「他人の人生に溶け込むこと」への抵抗
したがって、母になったことの後悔とわが子の誕生を後悔することの違いを主張することは、後悔についてのみの話ではない。主体であると見なされるために、与えられた機能から自身を分離しようとする女性の根本的な闘いをも映し出しているのだ。
主体性を要求するのは、後悔する母に限ったことではない。何十年もの間、学者や作家は、あらゆる母が主体として──他人の人生に溶け込んでアイデンティティを失ってしまうのではなく──認識される道を切り拓こうと努めてきた。これは、多くの女性が出産を経験し、母になることを根本的で触媒的な自己の危機として経験する社会的現実においては困難であり、特に女性は他人の人生に溶け込むことが正しい母の道だと言われることが多いのだ。
タマール・ハガルは次のように書いている。「この社会的期待を知識としては認識していたが、出産後の最初の数日の間に気がついた。今後私は、痛みや感情や欲望や願望を持つにもかかわらず、無制限の期間、自分自身を脇に置いて、自分自身を衰弱させ、姿を消し、抹消されることが期待されるのだと」。
この文脈では、母になったことを後悔する女性の物語は、そのパズルに追加されたピースと見なすことができる。彼女たちの後悔は、母が考え、感じ、欲望し、夢を見て、記憶する主体であるということを社会が忘れることを許さないのだ。