デカルトは極端な自説で何度も不当に告発された

デカルトは何度も不当に告発されている。直近の例をあげよう。現代人の環境破壊の大本をたどると、デカルトに行きつくという説がある。デカルトは物理学者でもあり(「慣性の法則」の名付け親は彼だ)、人間を「自然の支配者であり所有者」であるとした。

デカルトには、「物理学者フィジシャン」であると同時に、「形而上学者メタフィジシャン」の側面もある。そんな彼にとって自然とはただ素材が並んでいるだけのものであり、神的なものでも聖なるものでもなかった。つまり、自然を知り、技術の発展とともに人間の生活環境を改善し、生活の質を高めるのは当然のことだった。

だが、もう一度繰り返すが、デカルトは、思考の実験を重視していた。自然と稚拙な関係しか結べない一部の人間や、植物には目的や意図があるという当時まだ根強かった偏見にあらがうため、デカルトはあえて極端な自説を唱え、同時代の人たちに自然を単なる素材としてとらえ、支配者や所有者の「つもりで」自然に向き合うことを呼びかけたのだ。当然のことながら、デカルトにとって、自然の本当の「支配者や所有者」は人ではなく神であった。

たとえ話の名人デカルト

デカルトはたとえ話の名人だ。実際、「何かになったつもりで考える」のは、思考の実験として実に便利な方法なのである。『方法序説』で彼は、「暫定的道徳」として四つの箴言をあげている。不安と向き合うための四つのルールなのだが、ここにも「つもりで考える」がある。

一つ目。その国の慣習に従おう。

二つ目。何かを決断するときは、それが最善策であるというつもりで遂行しよう。

三つ目。自らの欲求を満たすために努力しよう。だが、それができないときは、世界の秩序ではなく、自らの欲望のほうを変化させよう。

四つ目。真理を求めよう。

二つ目の箴言に「つもりで」という表現が織り込まれている。決断が正しいかどうかは神のみぞ知る。私たちは神ではないが、行動せずにはいられない。だから、神になったつもりで、自分を疑うことなく、それが客観的に見て最善の策であると信じて生きるしかない。

実際、それが最善策と「なる」かもしれないのだ。限られた知性を最大限に使って熟考し、ひとたび決断したら、すべての力を尽くして行動に移す。有限の知性というちょっと短めの足と、無限の意志という壮大だが危険を伴う足、両足でバランスを取り、転ばないように歩いていく。器用に折り合いをつけて進むのが、デカルトの描いた理想の人間像である。