育児にはまったくテクノロジーが活用されない現実
IBMでは、新商品をローンチするための、グローバルマーケティングの業務を行った。IBMはシリコンバレーのIT企業のなかでも特に保守的。社内外で使う英語は、常に礼儀正しくて中立な表現を求められた。
「上司から“I suggest you ○○”と仕事の指示を受けたとしましょう。私は直訳で“提案”だと捉え、やってもやらなくてもいいのかと思っていたら、彼からすれば“命令”。そんな語学面での失敗が多くて苦労しました……。ツラかったのは、常にエクセルと向き合う、クリエイティブな部分が一切ない業務だったことですね」
もっと自分のアイデアを生かせる創造的な職業に就きたいと決意し、3年ほどでIBMを退社。その後数社のベンチャー企業で働き、31歳のとき出産と育児を機に一度専業主婦になる。
「シリコンバレーでは、ものすごいスピードで発達するテクノロジーの中で昼夜を問わず仕事をしていました。それなのに、オムツ換えや学校の連絡はすべてアナログ。効率とは無縁だから、不便でムダなことが多くて唖然としました」
育児という男性が関わることが少ない分野に、テクノロジーがあまり活用されていないことに気づいたのは、専業主婦として育児に専念した時期があったからこそ。そのまま会社でキャリアウーマンを続けていたらきっとわからなかったであろう、専業主婦の母親の大変さ、悔しさ、ムダに終わりかねない労力の数々——。堀江さんがそんな悶々とした日々を送っていた約20年前のシリコンバレーは、完全な男性社会。女性が業界の上層部にほとんどいないので、主婦や子どものニーズがあまり反映されない。非効率で誰にも評価されない部分を、女性たちが黙々と担っていたのだ。
育児・介護分野のアプリには興味なしの男たち
堀江さんは40歳で母親の介護と看取りを経験。介護分野にもテクノロジーの活用が少ないことに気づく。そして何より、自分の死を意識したことが大きい。死んでしまえば、地位も名誉もお金もあの世に持っていけない。それならば、次の世代の人々に何かを残したい。社会が良くなるために、これまでの経験とスキルを生かしたいと思うようになったのだ。
しかし再び企業に戻ってもそういうチャンスがないかもしれない。ならば自分でビジネスを始めようと決意し、教育系のベンチャーを立ち上げた。軌道に乗せるには金銭的なサポートが必要だが、投資家の大部分を占める男性たちを前にして、難しい局面に何度となく出くわした。
「例えば、投資家はかわいい女子と出会えるデートアプリに興味を示しても、育児や介護などの深刻な問題解決のためのアプリには注目しなかった。彼らはデートアプリのニーズが想像できても、育児アプリのニーズが感覚的に想像できなかったのでしょう。投資のチャンスを得られないまま肩を落として去っていく女性起業家たちをよく目にしました。女性の視点が反映されない社会は良くならない、優秀な女性たちが去っていくのをこれ以上見たくないと思ったのです」
この思いが2013年にWomen’s Startup Lab(以下WSLab)を起業した原動力だ。以前、教育系ベンチャーを立ち上げた時の孤独感や虚無感、さまざまな失敗を乗り越えた経験を生かすことができれば、女性起業家たちに道がひらかれるのでは。さらには、学生時代、堀江さんがIBMの副社長から与えられたチャンスをつかんだように「チャンスさえあれば、彼女たちも一歩踏み出せるかもしれない」。そんな思いが駆け巡った。