なぜ、わきまえてしまうのか
わたしはロサンゼルスにあるクレアモント大学院大学ドラッカー・スクール・オブ・マネジメントで教えています。さまざまなご縁から、ドラッカー・スクールの卒業生でもあるビジネスパートナーと日本でTransformという法人を立ち上げました。年に数回日本を訪問する機会に恵まれ、日本のビジネスパーソンや経営者、社会変革に取り組むNPOのリーダーなどを対象に、アメリカでの講演内容を凝縮したワークショップを開催しています。
日本でも長くセルフマネジメントを教えてきて、気づいたことがあります。それは、日本人が仕事、家事、育児などのあらゆる面において「ちゃんとしたやり方」があると信じ込みがちなこと。そして、その「ちゃんとしたやり方」をしないと誰かの怒りを買ってしまうと思い込みがちで、ついわきまえてしまう傾向にあることです。
もちろん、きちんとやること自体が問題なのではありません。問題は、社会的に定められた「正しい方法」が、ストレスの多い、あるいは最適ではない結果を生む場合です。人はこの「ちゃんとしたやり方」に窮屈さを感じます。
本当に怒られるのか
このついわきまえてしまう傾向は、日本を含め、儒教の影響を受けてきた東アジア文化圏において顕著です。なぜなら、個人のアイデンティティーよりも社会的な役割を重視してきた歴史的・伝統的背景があるからです。
しかし、本当に「ちゃんとしたやり方」でないと怒られるのでしょうか? その思い込みが正しいかどうかを検証せずに、社会に与えられたデフォルトの役割に無自覚に従っていることのほうが多くなってしまってはいないでしょうか。