精神が休まなければ休みの意味はない
人間は休んでいいどころか、休まなければならないのです。なぜなら、人間は生き物ですから、機械と違って、休まないとパフォーマンスが落ちます。そのような状態では、求められる仕事をすることはできません。したがって、むしろ休まないことにこそ罪の意識を感じるべきなのです。その意味で、部下が休みやすい環境を作れないような上司は失格です。売り上げさえよければマネジメントができているなどという考えは大間違いです。
では、休むとなぜパフォーマンスが上がるのか? もちろんそれは身体を休めることができるからですが、それだけではありません。なんといっても精神を休ませることができるからです。いくら身体を休ませることができても、精神が休まらなければ、無意味だといってもいいくらいです。
皆さんもそんな経験はありませんか? せっかく休んだのに、気持ちが落ち着かなくて、休んだ気がしなかった、というような経験が。
だから仕事で気がかりなことがあるときは、それをすっかり忘れる必要があります。あるいは、どうしても無理なときは、先にその仕事に目途をつけてから休みに入るなどの工夫をしたほうがいいでしょう。
そもそも、休日だからといって、ずっと家の中でじーっとしているわけではないと思います。どこかに出かけたりして、身体的には疲れることもあるでしょう。でも、それでリフレッシュすることができるのです。なぜか? 精神はしっかりと休めることができているからです。その意味で、楽しむ休日もくつろぐ休日も同じなのです。
「休み」の目的は心を落ち着かせること
そのことは哲学の世界でも明らかになっています。精神を安定させる方法には二種類あるのです。一つはエピクロス派のいうアタラクシア、もう一つはストア派のいうアパテイアです。この二つの哲学の一派は、古代ギリシア崩壊後、ヘレニズム期に台頭してきたものです。両者とも、混乱の時代をいかに心を落ち着かせて生きるかを考えた思想だといえます。
ところが、一見両者の思想は対照的です。エピクロス派のほうはエピクロスによって創始されたもので、一般的に快楽主義とされます。ただ、この快楽は放蕩者の官能的快楽ではなく、肉体において苦しまないことであり、また魂において混濁しないことだというのです。
つまり、けっして心躍るようなワクワクドキドキの快楽ではなくて、心から動揺をとり除くことで、落ち着いた境地を実現することを意味しています。この心の状態がアタラクシアにほかなりません。