「せっかくの休みなのに、仕事が気になって落ち着かない」「なんだかゆっくり寝られなかった……」そんな経験はありませんか? 「身体の疲れがとれないことが、心を病む原因にもなり得る」と、哲学者の小川仁志さんは言います。生活に息切れしないための賢い「休養」のとり方とは――。

※本稿は、小川仁志『幸福論3.0 価値観衝突時代の生き方を考える』(方丈社)の一部を再編集したものです。

頭を下げる女性社員と腕を組む男性社員
写真=iStock.com/Tony Studio
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人間の身体は物と同じようなもの

皆さんは身体をいたわってますか? 心を病む原因の多くは、身体に起因しているといっても過言ではありません。私もやる気が出なかったり、ネガティブになったりするのは、たいてい疲れがたまっているときです。身体の疲れが。でも、よほど病気にでもならない限り、なかなかそのことに気づかないのです。

人間は考える動物です。その意味では、フランスの哲学者デカルトが近代の初めに宣言したとおりです。「我思う、ゆえに我あり」。つまりこれは、人間の本質が意識にあるということです。

現にデカルトは、意識と身体を切り離し、しかも身体を物と同じ存在であるかのように扱ってしまったのです。いわゆる「心身二元論」という問題です。

しかし、そうやって意識中心に物事を考え始めると、どうしても身体がなおざりになってしまいます。身体のほうがほったらかしになるのです。そして気づいたときには、病気になっているとか、心に大きなダメージを及ぼすまでに至っていることがあります。

したがって、まず私たちがやらなければならないのは、身体の意義を見直すことです。

身体が意識より先に反応することもある

そこで参考になるのが、フランスの哲学者メルロ=ポンティの身体論です。

メルロ=ポンティは二十世紀の人ですが、デカルト以来はじめて本格的に身体について論じた哲学者だといっていいでしょう。

彼はまさにデカルトの心身二元論を乗り越えようとしたのです。そして、自己の身体の経験は、意識でも物質でもない「両義的な存在の仕方」だといいます。

たしかに、身体は意識とつながっています。だからこそ身体が熱いものに触れると、意識が熱いと感じるのです。そうするとつながっているとはいえ、身体はまるで意識に支配された物質のようにも思われます。でも、逆に私たちの身体が意識よりも先に反応することだってあるのです。

メルロ=ポンティは幻影肢の例を紹介しています。たとえば事故で右手を失った人が、それでも無意識に右手で物をつかもうとしてしまう現象のことです。

この時、無いはずの右手がかゆみを感じることもあるといいます。これは意識ではなく、右手につながる神経がそう感じているのです。