「せっかくの休みなのに、仕事が気になって落ち着かない」「なんだかゆっくり寝られなかった……」そんな経験はありませんか? 「身体の疲れがとれないことが、心を病む原因にもなり得る」と、哲学者の小川仁志さんは言います。生活に息切れしないための賢い「休養」のとり方とは――。

※本稿は、小川仁志『幸福論3.0 価値観衝突時代の生き方を考える』(方丈社)の一部を再編集したものです。

頭を下げる女性社員と腕を組む男性社員
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人間の身体は物と同じようなもの

皆さんは身体をいたわってますか? 心を病む原因の多くは、身体に起因しているといっても過言ではありません。私もやる気が出なかったり、ネガティブになったりするのは、たいてい疲れがたまっているときです。身体の疲れが。でも、よほど病気にでもならない限り、なかなかそのことに気づかないのです。

人間は考える動物です。その意味では、フランスの哲学者デカルトが近代の初めに宣言したとおりです。「我思う、ゆえに我あり」。つまりこれは、人間の本質が意識にあるということです。

現にデカルトは、意識と身体を切り離し、しかも身体を物と同じ存在であるかのように扱ってしまったのです。いわゆる「心身二元論」という問題です。

しかし、そうやって意識中心に物事を考え始めると、どうしても身体がなおざりになってしまいます。身体のほうがほったらかしになるのです。そして気づいたときには、病気になっているとか、心に大きなダメージを及ぼすまでに至っていることがあります。

したがって、まず私たちがやらなければならないのは、身体の意義を見直すことです。

身体が意識より先に反応することもある

そこで参考になるのが、フランスの哲学者メルロ=ポンティの身体論です。

メルロ=ポンティは二十世紀の人ですが、デカルト以来はじめて本格的に身体について論じた哲学者だといっていいでしょう。

彼はまさにデカルトの心身二元論を乗り越えようとしたのです。そして、自己の身体の経験は、意識でも物質でもない「両義的な存在の仕方」だといいます。

たしかに、身体は意識とつながっています。だからこそ身体が熱いものに触れると、意識が熱いと感じるのです。そうするとつながっているとはいえ、身体はまるで意識に支配された物質のようにも思われます。でも、逆に私たちの身体が意識よりも先に反応することだってあるのです。

メルロ=ポンティは幻影肢の例を紹介しています。たとえば事故で右手を失った人が、それでも無意識に右手で物をつかもうとしてしまう現象のことです。

この時、無いはずの右手がかゆみを感じることもあるといいます。これは意識ではなく、右手につながる神経がそう感じているのです。

身体は意識と世界をつなぐ媒体

よく考えてみれば、私たちが何かを感じるのは、常に身体をとおしてです。だから本当は身体が先に何かを経験しているのです。もっというと、身体の経験したことしか私たちは知り得ません。

その意味では、身体は意識と物質の両義性を超えて、むしろ意識と世界をつなぐ媒体であるともいえるのです。

そこでメルロ=ポンティも、身体が持つこのような意義に着目しだします。晩年彼は「肉」というユニークな概念を唱えました。

肉といっても、食べる肉や私たちを構成する筋肉のことではありません。それはこの世界のすべてを織りなす生地のようなものです。すべてを生みだす培養地といってもいいかもしれません。

メルロ=ポンティは、「私の身体は世界と同じ〈肉〉でできている」といいます。つまり、人間は世界のあらゆるものと一体の同じ存在だということです。このことを実感するには、右手で左手に触れてみるとすぐ分かります。右手が左手に触れるとき、右手が左手に触れるという感覚と、左手が右手に触れられるという感覚の二つを持つことができます。

実はこの感覚は、他者やモノに対しても持つことが可能なのです。触れる右手と触れられる左手がつながっているように、私たちが何か物に触れるとき、その物と私たちはつながっているのです。

考える女性と地球
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世界はすべて一体の何かからできており、つながっているわけです。いわばその「一体の何か」がここでいう「肉」にほかなりません。

ちなみに、この「肉」という言葉は聖書に由来します。聖書の世界では、人間は肉を分かち持つという趣旨の表現が多く見られます。

身心の状態が「視る」世界を変える

こうして世界のすべては、一つの同じモノを別の形で表現したものにすぎなくなります。その時、「私が世界に存在するものの各々の差異を認識するのは、私の身体を媒介にして」ということになります。ここにおいて身体の持つ意義は大きく変わってきます。

「私にとっての身体は、単にそれが私の身体であるという意味を超えて、世界と私をつなぐ媒介物」として再定義されるわけです。

このようにとらえると、必然的に身体を重視するようになるのではないでしょうか。なぜなら、身体の疲弊は、世界を認識する力を弱めてしまうからです。ましてや身体が機能不全に陥ると、世界とのチャネルが切断されてしまいます。

身体が疲れていると、物事をネガティブに考えてしまうのはそのためです。曇ったレンズで外を見ても、曇った景色しか見えません。二日酔いの朝、まぶしい太陽の光は自分を苦しめる拷問にしか思えません。

だから身体をいたわらないといけないのです。

ポジティブになるためにレンズを磨き、体調を整える。これが美しい景色を楽しみ、太陽の光に喜びを感じるための条件です。世界を素晴らしい場所としてポジティブにとらえるための方法なのです。

身体を健康にすれば、心も健康になる

たしかに世の中にはいろいろな問題があります。人生はけっして楽ではありません。

小川仁志『幸福論3.0 価値観衝突時代の生き方を考える』(方丈社)
小川仁志『幸福論3.0 価値観衝突時代の生き方を考える』(方丈社)

ただ、そんな中でもポジティブに生きられる人とそうでない人がいるのはなぜでしょうか? 同じすさんだ世界を見ても、よしやってやると思える人と、もうだめだと思う人がいるのはなぜでしょうか?

それは自分の側が違うからです。自分の身体が違うからです。ポジティブになるためには意識を変える必要がある。私たちはそう思いがちです。でも、それだけが唯一の方法ではないのかもしれません。もしかしたら、身体を変えるだけで、身体を少しでも健康な状態にもっていくだけで、ポジティブになれるのではないでしょうか。

それに、意識を変えるのは大変ですが、身体を変えるのは比較的簡単です。しっかりと睡眠を取って、規則正しい生活をし、きちんと栄養を摂り、適度な運動をする。それだけのことです。誰しも何らかの病気を抱えていたり、突然病気にかかったりします。それは仕方がないことです。だからといって、何もできないことはないはずです。

ほんの少しでも身体をいたわってやることができれば、あなたにとって世界はその分、素敵なものになるに違いありません。

「健康第一」ではなく、本当は「身体第一」なのです。

「会社を休む」は悪いことなのか

昔日本が右肩上がりの成長をしているころは、皆必死に働いていました。それこそ土日返上で。では、成熟社会を迎えつつある今はどうか? 2019年に行われた19カ国を対象とした有給休暇の取得率に関する調査によると、日本は最下位でした。つまり、相変わらず土日返上で必死に働いているのです。

コロナ禍もあって働き方改革が多少加速し、今は少しましになっているかもしれません。でも、ついこの前まで過労死で企業が訴えられるケースは後を絶たず、過酷な労働を強いるブラック企業という言葉が頻繁にメディアに登場していました。最近はテレワークでオンとオフの境目がなくなり、逆に過重労働になっているという話も聞きます。

結局、経済が縮小しようが、国家が成熟しようが、この国の労働のあり方はあまり変わらないということです。その背景には、日本人全体が共有する集団的な強迫観念が横たわっているように思えてなりません。いわば「休むことに対する罪の意識」です。

日本の組織では、休みを取るときに「お休みをいただきます」という表現を使う傾向がありますよね。「休みます」ではないのです。本当は労働者としての自分の権利ですから、「休みます」でいいのですが。

ところがなぜか、「お休みをいただきます」とへりくだる必要があります。そういわないといけない雰囲気があるのです。それは、皆が休むことを罪だと思っているからです。

まずその認識を改める必要があるでしょう。

精神が休まなければ休みの意味はない

人間は休んでいいどころか、休まなければならないのです。なぜなら、人間は生き物ですから、機械と違って、休まないとパフォーマンスが落ちます。そのような状態では、求められる仕事をすることはできません。したがって、むしろ休まないことにこそ罪の意識を感じるべきなのです。その意味で、部下が休みやすい環境を作れないような上司は失格です。売り上げさえよければマネジメントができているなどという考えは大間違いです。

では、休むとなぜパフォーマンスが上がるのか? もちろんそれは身体を休めることができるからですが、それだけではありません。なんといっても精神を休ませることができるからです。いくら身体を休ませることができても、精神が休まらなければ、無意味だといってもいいくらいです。

皆さんもそんな経験はありませんか? せっかく休んだのに、気持ちが落ち着かなくて、休んだ気がしなかった、というような経験が。

だから仕事で気がかりなことがあるときは、それをすっかり忘れる必要があります。あるいは、どうしても無理なときは、先にその仕事に目途をつけてから休みに入るなどの工夫をしたほうがいいでしょう。

そもそも、休日だからといって、ずっと家の中でじーっとしているわけではないと思います。どこかに出かけたりして、身体的には疲れることもあるでしょう。でも、それでリフレッシュすることができるのです。なぜか? 精神はしっかりと休めることができているからです。その意味で、楽しむ休日もくつろぐ休日も同じなのです。

「休み」の目的は心を落ち着かせること

そのことは哲学の世界でも明らかになっています。精神を安定させる方法には二種類あるのです。一つはエピクロス派のいうアタラクシア、もう一つはストア派のいうアパテイアです。この二つの哲学の一派は、古代ギリシア崩壊後、ヘレニズム期に台頭してきたものです。両者とも、混乱の時代をいかに心を落ち着かせて生きるかを考えた思想だといえます。

ところが、一見両者の思想は対照的です。エピクロス派のほうはエピクロスによって創始されたもので、一般的に快楽主義とされます。ただ、この快楽は放蕩者の官能的快楽ではなく、肉体において苦しまないことであり、また魂において混濁しないことだというのです。

つまり、けっして心躍るようなワクワクドキドキの快楽ではなくて、心から動揺をとり除くことで、落ち着いた境地を実現することを意味しています。この心の状態がアタラクシアにほかなりません。

いずれも「休み=心の平穏」であることは変わらない

他方、ストア派のほうは、ゼノンによって創設され、ローマ時代のマルクス・アウレリウスに至るまで長く存続しました。彼らの思想の特徴は、世間的な価値を蔑視し、自然に従って生きることをすすめる点にあります。ストア派にとって、究極の価値は大宇宙の自然に従って生きることだ、というのです。

したがって、情念や欲情に支配されないで超然として生きる禁欲主義を理想としました。彼らが理想とする心の状態アパテイアが、「パトス(情念)がない」という意味であるのもよく分かります。ちなみに、スポーツなどでよく使うストイックという言葉は、このストア派に由来するものです。

このように、エピクロス派のいうアタラクシアもストア派のいうアパテイアも、いずれも心の平穏を意味する言葉なのです。先ほど、楽しむ休日もくつろぐ休日も同じだといったのは、いずれも心を落ち着けることが目的だからということです。

時に立ち止まる。それは人間の運命

人間にとって精神の休息が不可欠だということは、これでよく分かっていただけたかと思います。もっというならば、精神の休息の可能性こそが重要なのです。あと少し頑張れば、確実に休息が得られるという気持ちが、私たちを楽にします。いわば休日はユートピアなのです。かつてトマス・モアが提案したあのユートピアです。

モアは、古代ギリシア語の「どこにもない」という語と「場所」を表す語をくっつけて、ユートピアという言葉を生み出しました。ですから、ユートピアとは現実には存在しない理想の場所なのです。でも、そのおかげで、人は理想を求めて生きることができるのです。

休日、リゾートに行こうとする人が多いのは、ユートピアに憧れているからではないでしょうか。本当はリゾートに行っても、人が多かったり、子どもがぐずったりして、疲れることが多いのですが、少なくとも働いているときは、そこに理想を見ます。そして頑張るのです。

普段の一週間も同じでしょう。理想の週末を夢見て頑張るのです。休日があると思えるのとそうでないのとは大違いなのです。こうした気持ちで頑張り続けるためには、「休める詐欺」ではいけません。本当に休まないと、もう次回から理想を信じられなくなってしまいますから。

そして実際に休んだときには、遊び倒してもくつろいでもいいのですが、心のリセットだけは忘れないようにしていただきたいと思います。精神を落ち着けるというのは、仕事モードの心をリセットして、休日明けに落ち着いて事に当たれるようにするということです。走り続けることを運命づけられた人間には、時に立ち止まることが求められるのです。そうでないと息切れしてしまいますから。