身体は意識と世界をつなぐ媒体

よく考えてみれば、私たちが何かを感じるのは、常に身体をとおしてです。だから本当は身体が先に何かを経験しているのです。もっというと、身体の経験したことしか私たちは知り得ません。

その意味では、身体は意識と物質の両義性を超えて、むしろ意識と世界をつなぐ媒体であるともいえるのです。

そこでメルロ=ポンティも、身体が持つこのような意義に着目しだします。晩年彼は「肉」というユニークな概念を唱えました。

肉といっても、食べる肉や私たちを構成する筋肉のことではありません。それはこの世界のすべてを織りなす生地のようなものです。すべてを生みだす培養地といってもいいかもしれません。

メルロ=ポンティは、「私の身体は世界と同じ〈肉〉でできている」といいます。つまり、人間は世界のあらゆるものと一体の同じ存在だということです。このことを実感するには、右手で左手に触れてみるとすぐ分かります。右手が左手に触れるとき、右手が左手に触れるという感覚と、左手が右手に触れられるという感覚の二つを持つことができます。

実はこの感覚は、他者やモノに対しても持つことが可能なのです。触れる右手と触れられる左手がつながっているように、私たちが何か物に触れるとき、その物と私たちはつながっているのです。

考える女性と地球
写真=iStock.com/metamorworks
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世界はすべて一体の何かからできており、つながっているわけです。いわばその「一体の何か」がここでいう「肉」にほかなりません。

ちなみに、この「肉」という言葉は聖書に由来します。聖書の世界では、人間は肉を分かち持つという趣旨の表現が多く見られます。

身心の状態が「視る」世界を変える

こうして世界のすべては、一つの同じモノを別の形で表現したものにすぎなくなります。その時、「私が世界に存在するものの各々の差異を認識するのは、私の身体を媒介にして」ということになります。ここにおいて身体の持つ意義は大きく変わってきます。

「私にとっての身体は、単にそれが私の身体であるという意味を超えて、世界と私をつなぐ媒介物」として再定義されるわけです。

このようにとらえると、必然的に身体を重視するようになるのではないでしょうか。なぜなら、身体の疲弊は、世界を認識する力を弱めてしまうからです。ましてや身体が機能不全に陥ると、世界とのチャネルが切断されてしまいます。

身体が疲れていると、物事をネガティブに考えてしまうのはそのためです。曇ったレンズで外を見ても、曇った景色しか見えません。二日酔いの朝、まぶしい太陽の光は自分を苦しめる拷問にしか思えません。

だから身体をいたわらないといけないのです。

ポジティブになるためにレンズを磨き、体調を整える。これが美しい景色を楽しみ、太陽の光に喜びを感じるための条件です。世界を素晴らしい場所としてポジティブにとらえるための方法なのです。