虫垂炎から人工肛門に。祖母に捨てられた思いと相まって

1935年、母・はる子は7人きょうだいの末っ子として長野県で生まれました。母が10歳くらいのとき、虫垂炎をこじらせ、腹膜炎を患い、処置が遅れたせいで一時期、人工肛門に。その後、10回以上の手術を繰り返したようです。母の悲運はそれだけではなく、祖母が酒乱の祖父を残し、家を出たのです。

バスに乗り込む祖母を伯母と2人で追いかけ、伯母はバスに乗れたけれど、母は間に合わずに置いていかれてしまったそう。そのときの寂しさ、悲しさは強烈だったでしょう。その後、生活を立て直した祖母は母を呼び寄せ、一緒に暮らすようになりましたが、母は常に“捨てられた”という思いを拭いきれずにいたようです。

(左)2歳ごろ。幼いころから母は厳しかった。飼っていた雑種犬ポニーは、おおたわさんが母にたたかれそうになると止めに入ってくれた。(右)生まれたとき両親は籍を入れておらず、嫡出子として認められていなかった。
(左)2歳ごろ。幼いころから母は厳しかった。飼っていた雑種犬ポニーは、おおたわさんが母にたたかれそうになると止めに入ってくれた。(右)生まれたとき両親は籍を入れておらず、嫡出子として認められていなかった。

腹膜炎の後遺症もあり、まともにお嫁にいけないだろうと考え、看護師の道に進み、東京の病院で働いていたとき10歳年上の医師である父と出会います。でも、2人が出会ったとき、父には妻と生まれたばかりの子どもがいたのです。奥さんに離婚を切り出すも応じてもらえず、2人が籍を入れたのは、私が生まれた後のこと。父は、幼い子どもを置いて家を出た負い目があり、慰謝料と養育費のために一生懸命働いていました。一方の母は、愛する人と添うことができたものの、親戚から「子どものいる家庭から父親を寝取った女」とさげすまれていました。

母の勧めで、小学校を受験しましたが、有名私立の志望校には受からず、国立の東京教育大学附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学。母は異常なまでに教育に熱心でしたが、周囲を見返してやりたいという思いが強かったのでしょうね。母の目標は私を“医者にすること”だったのだと思います。

(左)大好きな父と。幼いころの写真はあまり残っていない。写真を撮ることも少なく、アルバムを整理する人もいなかったからだ。(右)幼稚園のプールで遊ぶ。
(左)大好きな父と。幼いころの写真はあまり残っていない。写真を撮ることも少なく、アルバムを整理する人もいなかったからだ。(右)幼稚園のプールで遊ぶ。

母は体が弱く、腹膜炎の後遺症のためか、いつも「痛い痛い」と床に伏せっていました。家事はほとんどせず、私の面倒をみてくれていたのは住み込みで働いていた家政婦さん。料理・洗濯・お米のとぎ方など、普通、母親から習うことはすべて家政婦さんから学びました。

私にとっては育ての親。家政婦さんがいてくれたおかげで、私の心のバランスは取れていたのだと思います。ただ、母から厳しくされていたことに対し、家政婦さんが母に意見することはありません。どんなに私が慕っても、私を含め家族と雇用関係で結ばれた間柄ですから。