「見えない事を確認する。それが観測でしょう」

「雨で富士山が見えないと分かっていても屋上に上るのはなぜですか?」と聞くと、小谷内さんは「見えない事を確認する。それが観測でしょう」と静かに答えられた。そして「身体が動き続ける間はスケッチをやめない」「自分が死んだら、このスケッチブックは気象庁(図書室)に寄贈するつもりだ」とも付け加えられた。

その後、1995年に小谷内さんが亡くなられたことを人づてに知り、気象庁の図書館に行ってみた。すると、何冊もの水彩画の富士山が本当に気象庁の書庫に収められていたのである。私は感激した。もちろん、現在も閲覧可能である。

ここで小谷内さんの思い出話を書いたのには理由がある。ひとえに「観測の精神」が小谷内さんの行動に凝縮されているからだ。

観測というと、気温や気圧を測器で測るイメージがあるが、本来の観測というのは、何かの事象を継続して観察することである。そして長期間の観察によって得られた自然現象の移り変わりや変化を、さらに応用して未来予測に繋げるのが観測の目的である。

したがって観測はできるだけ長期にわたって行われなければ意味がなく、逆に言えば観測期間の長いものほど資料的価値を生むわけである。

防災を建前に先人の積み重ねを捨てていいのか

ではなぜ、気象庁は60年以上も続けてきた動物季節観測を廃止しようとしているのだろうか。電話取材によると、直接の理由は観測動物がいなくなっているとか動物の出現が季節の変化を表していないからとの事だったが、私は予算が関係しているのではと推察している。気象庁ホームページに広告を載せる試みも、そうした事情からだろう。

2000年 648億円 6133人
2010年 620億円 5347人
2020年 595億円 4554人

これは気象庁予算と職員数の10年ごとの推移である。20年前に比べると予算は53億円ほど、人員は約1600人減っている。一方で、水害による被害額はここ20年で5.5倍増の約1兆3600億円。少ない予算や人員を、昨今、多発する気象災害への対策にかけたいという考えは分からないわけではない。

しかし、防災を建前に観測という先人の積み重ねを捨ててしまっていいものだろうか。ウグイスの初鳴きやセミの声など小さな季節の移ろいに気が付かなくなり、昆虫の激減や植物の変化にも鈍感になるであろう。そして、果ては温暖化や異常気象などの気候変動にさえ無関心になるのではないだろうか。

先に述べたように、気象庁予算は50数年前に比べて3分の1に激減している。この予算の縮小は、ボディーブローのように日本の気象業務の衰退を招くのではないかと危惧する。その始まりが生物季節観測の見直し(動物季節観測の廃止)のように思える。

<参考文献>
気象年鑑他(予算)/e-stat(職員数)/沼田英二『クマゼミから温暖化を考える』(岩波ジュニア新書)/片平敦氏 個人ブログ/気象庁ホームページ

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