単身赴任して挑んだ事業が1年で解散

その一方で会社からの評価は高く、31歳の若さで統括部長に昇格。正社員と派遣の両方の仕事を探せる女性向けサイト「dodaオフィスワーク」の準備室立ち上げを任され、同時に大阪から東京への転勤を打診される。

パーソルキャリア喜多さん
写真提供=パーソルキャリア

新規事業への不安はあったが、目の前にきたチャンスはつかみとるのが信条。責任者として自分に白羽の矢が立ったことがうれしく、また夫も挑戦を後押ししてくれたため東京に単身赴任した。「やってみなければ何も生まれない。やってみてダメだったらやめればいい」。そんな前向きな姿勢で、新たな役割に挑んだ。

だが、この事業は失敗に終わる。喜多さんの役割は、すでにできあがっていた構想の実行部隊。構想自体に異を唱えることはできず、納得感のないまま進めていたところへリーマンショックが追い討ちをかけた。「責任者として構想への異論も伝えるべきだった」と悔やんだが時すでに遅し。事業は始動したものの成長の見通しが立たず、結局約1年で解散になった。

「この頃が一番つらかったですね。リーマンショックで業界が一気に冷え込み、仕事を探している人を支えられなくなった上、新規事業の解散や社内の人材整理も重なって……。子どもみたいな憤りを感じて、自社をリスクに耐えうる企業にしなければと強く思ったんです。そのために偉くなろうと」

つらい経験を経て、会社を変えるために上を目指そうと決意した喜多さん。ちょうどこの頃、ずっと感じていた孤独もやわらぎ始めていたという。“できる人”であり続けようとするあまり閉ざしていた心を、当時の上司が少しずつ開いてくれたのだ。

その上司は、7〜8年もの間ずっと「君はそのままでいい」と言い続けてくれたそう。最初は意味がわからなかったそうだが、やがてありのままの自分でいいんだということに気づき、スッと気が楽になる。結局、人は自分以外の何者かにはなれない。できないことがあってもいいんだと、いい意味で開き直ることができた。

この気づきが、次の転機の土台になった。リーマンショック後、派遣事業を統括する事業部長に昇格。チームワークや組織運営が苦手だったこともあって悪戦苦闘が続き、1年後、部下の男性管理職に「もう一緒に仕事をしていく自信がないから異動させてくれ」と言われてしまう。