都会の生活を満喫していた大学時代
今は業界でも紅一点の釉薬職人として働く尋子さんだが、以前は自分が職人になるとは夢にも思っていなかったという。高校卒業後は大阪の大学に進学し、都会での暮らしを満喫。友達と遊んだりおしゃれなカフェでアルバイトをしたりしながら、将来はマスコミ業界を目指していた。
「小さい頃から釉薬職人の父の背中を見ていて、こんな大変な仕事は絶対にしたくないと思っていました。継いでほしいと言われたこともなかったし、将来は『都会でキラキラした仕事に就くんだ』って夢見ていましたね(笑)」
「2年だけ家業を手伝って」父の頼みで大学を中退
それが急転したのは大学3年生の時。父親と一緒に家業を支えていた母が体調を崩し、父親から「地元に帰って2年間だけ手伝ってくれ」と頼まれたのだ。家業の一大事とあっては断れるはずもなく、大学を中退して帰郷。玉川釉薬に入社したものの、夢と違いすぎて心がついていかず、毎日めそめそしていたという。
家業での仕事は、父親の営業先に同行する外回りから始まった。釉薬業界では、職人が営業も兼務するのが一般的。特に父親は経営者でもあったため、工場内で釉薬をつくるだけでなく、顧客との打ち合わせも大事な仕事のひとつだった。
尋子さんはそれまで、「お父さんは仕事ができる完璧な人間」だと思っていたそう。ところが、営業先で顧客から「頼んだ色と合っていない」と言われて頭を下げる場面を目にして、父親も苦労しているということに気づく。私が色合わせできるようになって助けてあげたい──。そんな思いが大きくなっていった。
「結局、ここで働き続けているのは、根底に父を助けたいという思いがあるからだと思います。父は昔ながらの“不器用な職人”タイプの人。経営者としてもどこか不器用な部分があって、そこに新しい風を吹き込んでくれたのが妹なんです」
世界を夢見た妹も、家業のためにUターン
妹の幸枝さんも、大学を中退して家業に入ったという経緯は同じだが、その後は尋子さんとまったく違う道を歩んできた。
大学時代は国際開発の世界を目指し英語を専攻し、将来の夢は世界を見て回ること。当時の自分を「田舎の工場で働くなんて全然頭になかった」と振り返る。
「手伝ってくれと言われた時は、予想外すぎてびっくりしました。でも父の切羽詰まった思いが伝わってきたので、『じゃあ2年だけやります』と。入社後は母に代わって事務を担当していましたが、やっぱり世界への夢が捨て切れなくて……」
昼は玉川釉薬で働き、夜は英会話の勉強を続けていた幸枝さん。やがて英語学習教材の会社が主催する懸賞論文に応募し、見事選ばれてアイルランドの語学学校へ短期留学が実現。この時、会社から2週間の休みがもらえたため、「味をしめて」次は3カ月の世界一周旅行に飛び出した。
国際交流しながら船で世界を回る「ピースボート」での旅。乗船時は田舎で働く自分に向き合えず、将来の展望もまったく見えなかったが、世界を回り、さまざまな仲間と出会い刺激を受けるうち心が前向きになった。自分の可能性に自分でフタをしていたと気づき、ここからが再スタートと晴れやかな気持ちで船を降りた。