『半沢直樹』をジェンダーレスに楽しめる感性があるか

2020年の『半沢直樹』を、ジェンダー的な文脈の用語で「現状追認」「思考停止」と批判するのは、もう少しちゃんと見てからの方がいい。彼らが描いているのは「現状」ではなく、「大きな組織の中であらかじめ他人が決めた理屈を理不尽に押し付けられた勤め人たちの、正義感と連帯と自己実現の物語」であって、それを描くのにいま「現状」はあまりに複雑になりすぎているから条件や属性をそぎ落とし、シンプルにする必要があったのである。「思考」は「停止」しているどころか、古今東西上下左右、斜め上にも下にも熟考した結果の選択だと捉えてもいいのではないか。

そう、一人の人間の物語や感情を掘り下げて描くという目的の前に、現代という時代の舞台はいまあまりに広く、複雑で多様で、バラけすぎるのだ。『半沢直樹』を見るF1女子たちは、そぎ落とされたシチュエーションで描かれる時代劇のような物語と感情を、物理的に男が演じているとか女が演じているとかの目前の問題を超えてジェンダーレスに楽しみ没頭し共感しうるドラマリテラシーを持っているということなのだろう。

結果として、なぜその物語と感情を描くのに、男性銀行員ばかりであるのか。

私はそのヒントとして、

「夜のニュースをテレビで見て思うのは、世界のあらゆる問題は結局のところ、Y染色体をもった人々の振る舞いが原因なのだということだ」(グレイソン・ペリー『男らしさの終焉』フィルムアート社)

との一文を引用しておこうと思う。

そして、Y染色体が織りなす物語から生まれる感情にいまやXX染色体の女性たちもジェンダーを超えて共感するのだと確認できるほどに、われわれは十分に文明的で社会的動物なのだと言祝ことほぎたい

画像提供=TBS

河崎 環(かわさき・たまき)
コラムニスト

1973年、京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。時事、カルチャー、政治経済、子育て・教育など多くの分野で執筆中。著書に『オタク中年女子のすすめ』『女子の生き様は顔に出る』ほか。