7年ぶりにドラマ『半沢直樹』の新シリーズがスタート。初回の視聴率が22%を超え話題になっている。中でも若手女性の視聴率が堅調なのだそうだ。なぜ彼女たちは、昭和のにおいが色濃く漂うおじさん銀行員の世界をそこまで見たいのだろうか。

おじさんドラマをF1(20歳~34歳女性)が見ている!

「倍返しだ!」のフレーズで社会現象となったドラマ『半沢直樹』の新シリーズ(TBS系列、日曜9時)がいよいよスタート、その初回視聴率が22%を超えたとして大きな話題となった。

最終回視聴率が42.2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)をマークした前シリーズ『半沢直樹』の大ヒットは2013年。視聴者は続編が予定されているとは聞かされながらもじりじりと待たされ、あっという間に7年が過ぎた感がある。前シリーズで主人公である東京中央銀行のバンカー・半沢直樹を演じる堺雅人が行内の不正を次々と暴くなかで見せた、泣き笑いと激しい怒りが渦を巻くような独特の表情、そして半沢の宿敵である大和田常務役・香川照之の見事すぎた“顔芸”も、まだまだ記憶に新しい。

半沢の宿敵、大和田常務と。
半沢の宿敵、大和田常務と。画像提供=TBS

ドラマ原作は前回同様、売れに売れる池井戸潤の極上エンタメ小説で、今シリーズは『ロスジェネの逆襲』と『銀翼のイカロス』がベース。第3回までが放送された現状では、子会社であるセントラル証券へ出向となった営業企画部長の半沢がIT業界の買収合戦に携わり、役員たちの思惑が渦巻く行内政治、パワハラ、不正ギリギリを綱渡りするオペレーションなど、金融業界のみならず、いかにも日本企業的な「組織」の現場を知る人たちなら身につまされるような出来事、セリフが次々と畳み掛けられ、息もつかせぬ展開を見せている。

そしてこのドラマは、視聴者の内訳バランスが非常にいいことでも知られる。ドラマに描かれている「新旧のサラリーマンのおじさん」がこぞって見ているのだろうと想像しがちだが、その実、老若男女がバランスよく見ていて国民的ドラマの様相すら呈している。しかも今シリーズでは特徴的に、「F1層」と呼ばれる20代~34歳の若い女性視聴者に人気が高いことも指摘されているのだ。同世代の男子が第1回目~第2回目にかけて視聴率が減少しているにもかかわらず、女子は上昇している。おそらく彼女たちをこそ意識して作られているはずの『ハケンの品格』よりも、『半沢直樹』を見ている人の方が圧倒的に多いというのである。

彼女たちは、なぜ自分たち「女子」に向けて世代的共感たっぷりに用意されたドラマではなく、堅い業界で倍返しするおじさんドラマを見ているのだろうか。

『半沢直樹』は月曜日を元気に迎えるための時代劇なのだ

さて、この『半沢直樹』、画面が顕著に真っ黒なのが印象的だ。というのも、出てくる登場人物たちが「日本の」「大銀行の」「男性エリートばかり」で、このご時世だというのに几帳面にも朝から晩まで典型的なダークスーツ上下を纏い、きっちりネクタイまで締め上げている。現実の日系金融業界を見れば、クールビズに働き方改革にウィズコロナにと、さすがに2020年の現状はそこまで旧態依然としたオフィス生活ではないし、本社の女性行員率だってもっと高い。役員に女性が皆無なのも、2020年の現状とは異なる。

半沢直樹
画像提供=TBS

そんなダークスーツの男性銀行員たちがツバを飛ばしながら目の前5センチの距離に近接してにらみ合い怒鳴り合い、組織の不正を暴き、卑怯な悪者を爽快に成敗し、和服姿の女将・智美(井川遥)がしっとり優しく酒を注いでくれる小料理屋で会社の機密情報をおおらかに話し合っている(個室ですらない)という、時代劇のようなデフォルメ感。いま私たちが置かれている、この配慮あふれるコンプライアンス社会の緊張感や、ソーシャルディスタンスあふれるウィズコロナ社会の現実との乖離をきちんと見つめ、受け止めるならば、

「そうか、これは現代劇の姿を借りた勧善懲悪の時代劇なのだ」

ノーディスタンスな攻防が見どころ。
ノーディスタンスな攻防が見どころ。画像提供=TBS

と理解するのが賢明だし、道理だろう。時代劇なら、現実離れしていても仕方ない。時代劇だから。

これは、日曜の夜、組織や社会の理不尽に憤る人々が「ああスッキリした!」と溜飲を下げて月曜日を迎え、元気に次の1週間を乗り切るための勧善懲悪の時代劇なのだ。あるいは歌舞伎界からの豪華出演者たちの面々と彼らの演技力、発声、そして大振りの芸を鑑みるに、これはドラマの姿を借りたお茶の間歌舞伎、伝統芸能、様式美なのだ。

『半沢直樹』に男尊女卑だ! と怒る人の残念さ

2020年の『半沢直樹』は、制作環境としては2013年の前作から7年が経過し、社会に少なからず進化変容が認められるにもかかわらず、明快な勧善懲悪の爽快感という価値を損なわず、軸をぶらさず、メッセージをバラけさせないために、意図的にリアリスティックな情報をそぎ落とし、よりカリカチュア(戯画)に徹している。あえて限定的に描かれる組織環境の中で、さまざまな役割や性格を抽象的に背負ったキャラクターが発する「人間の感情」のみが、業界であるとか年齢であるとか男女であるとかの属性を超えて、ある意味現実的なのである。

もともとあまり世間のドラマやCMや表現といったものになんら疑問を持たず、スクリーンの裏側にも製作者の意図にも行間にも目を光らせない、画面通り字面通りに楽しめてしまう素直なエンタメ視聴者は、純粋に歓喜するだろう。だがそうでない視聴者の中には、2020年にわざわざ時代に逆行した(時代を固定した)シチュエーションプレイを敢行する『半沢直樹』に向かって、「こんなに女性の役割が限定されているドラマは男尊女卑だ!」と怒ってしまう向きもあるようだ。

確かに、女性が専業主婦の妻(上戸彩)と、料理屋の女将(井川遥)と、大手IT企業創業者の野心的で高圧的な妻(南野陽子)と子会社の新入社員(今田美桜)と、アナウンサーから政治家に転身した国土交通大臣(江口のりこ)しかいない、限定された役割の女がたまに顔を出すだけの男子校みたいな世界観を見て、何かひとこと言いたくなる気持ちはよくわかる。

カリカチュア的にそぎ落とし先鋭化した表現、あるいはメタ表現に慣れている視聴者は「わかっている」視聴者なので、このドラマを素直に楽しめるだけの距離を取ることができるのだが、どうも距離をつかめない、というか、物理的な男女の別に引っかかって本質にたどり着かない、中途半端なところで足踏みをしてしまう人がいる。それがボトルネックとなって『半沢直樹』の価値と楽しさを理解し損ねているのだとすれば、残念で仕方ない。

『半沢直樹』をジェンダーレスに楽しめる感性があるか

2020年の『半沢直樹』を、ジェンダー的な文脈の用語で「現状追認」「思考停止」と批判するのは、もう少しちゃんと見てからの方がいい。彼らが描いているのは「現状」ではなく、「大きな組織の中であらかじめ他人が決めた理屈を理不尽に押し付けられた勤め人たちの、正義感と連帯と自己実現の物語」であって、それを描くのにいま「現状」はあまりに複雑になりすぎているから条件や属性をそぎ落とし、シンプルにする必要があったのである。「思考」は「停止」しているどころか、古今東西上下左右、斜め上にも下にも熟考した結果の選択だと捉えてもいいのではないか。

そう、一人の人間の物語や感情を掘り下げて描くという目的の前に、現代という時代の舞台はいまあまりに広く、複雑で多様で、バラけすぎるのだ。『半沢直樹』を見るF1女子たちは、そぎ落とされたシチュエーションで描かれる時代劇のような物語と感情を、物理的に男が演じているとか女が演じているとかの目前の問題を超えてジェンダーレスに楽しみ没頭し共感しうるドラマリテラシーを持っているということなのだろう。

結果として、なぜその物語と感情を描くのに、男性銀行員ばかりであるのか。

私はそのヒントとして、

「夜のニュースをテレビで見て思うのは、世界のあらゆる問題は結局のところ、Y染色体をもった人々の振る舞いが原因なのだということだ」(グレイソン・ペリー『男らしさの終焉』フィルムアート社)

との一文を引用しておこうと思う。

そして、Y染色体が織りなす物語から生まれる感情にいまやXX染色体の女性たちもジェンダーを超えて共感するのだと確認できるほどに、われわれは十分に文明的で社会的動物なのだと言祝ことほぎたい