『半沢直樹』は月曜日を元気に迎えるための時代劇なのだ

さて、この『半沢直樹』、画面が顕著に真っ黒なのが印象的だ。というのも、出てくる登場人物たちが「日本の」「大銀行の」「男性エリートばかり」で、このご時世だというのに几帳面にも朝から晩まで典型的なダークスーツ上下を纏い、きっちりネクタイまで締め上げている。現実の日系金融業界を見れば、クールビズに働き方改革にウィズコロナにと、さすがに2020年の現状はそこまで旧態依然としたオフィス生活ではないし、本社の女性行員率だってもっと高い。役員に女性が皆無なのも、2020年の現状とは異なる。

半沢直樹
画像提供=TBS

そんなダークスーツの男性銀行員たちがツバを飛ばしながら目の前5センチの距離に近接してにらみ合い怒鳴り合い、組織の不正を暴き、卑怯な悪者を爽快に成敗し、和服姿の女将・智美(井川遥)がしっとり優しく酒を注いでくれる小料理屋で会社の機密情報をおおらかに話し合っている(個室ですらない)という、時代劇のようなデフォルメ感。いま私たちが置かれている、この配慮あふれるコンプライアンス社会の緊張感や、ソーシャルディスタンスあふれるウィズコロナ社会の現実との乖離をきちんと見つめ、受け止めるならば、

「そうか、これは現代劇の姿を借りた勧善懲悪の時代劇なのだ」

ノーディスタンスな攻防が見どころ。
ノーディスタンスな攻防が見どころ。画像提供=TBS

と理解するのが賢明だし、道理だろう。時代劇なら、現実離れしていても仕方ない。時代劇だから。

これは、日曜の夜、組織や社会の理不尽に憤る人々が「ああスッキリした!」と溜飲を下げて月曜日を迎え、元気に次の1週間を乗り切るための勧善懲悪の時代劇なのだ。あるいは歌舞伎界からの豪華出演者たちの面々と彼らの演技力、発声、そして大振りの芸を鑑みるに、これはドラマの姿を借りたお茶の間歌舞伎、伝統芸能、様式美なのだ。

『半沢直樹』に男尊女卑だ! と怒る人の残念さ

2020年の『半沢直樹』は、制作環境としては2013年の前作から7年が経過し、社会に少なからず進化変容が認められるにもかかわらず、明快な勧善懲悪の爽快感という価値を損なわず、軸をぶらさず、メッセージをバラけさせないために、意図的にリアリスティックな情報をそぎ落とし、よりカリカチュア(戯画)に徹している。あえて限定的に描かれる組織環境の中で、さまざまな役割や性格を抽象的に背負ったキャラクターが発する「人間の感情」のみが、業界であるとか年齢であるとか男女であるとかの属性を超えて、ある意味現実的なのである。

もともとあまり世間のドラマやCMや表現といったものになんら疑問を持たず、スクリーンの裏側にも製作者の意図にも行間にも目を光らせない、画面通り字面通りに楽しめてしまう素直なエンタメ視聴者は、純粋に歓喜するだろう。だがそうでない視聴者の中には、2020年にわざわざ時代に逆行した(時代を固定した)シチュエーションプレイを敢行する『半沢直樹』に向かって、「こんなに女性の役割が限定されているドラマは男尊女卑だ!」と怒ってしまう向きもあるようだ。

確かに、女性が専業主婦の妻(上戸彩)と、料理屋の女将(井川遥)と、大手IT企業創業者の野心的で高圧的な妻(南野陽子)と子会社の新入社員(今田美桜)と、アナウンサーから政治家に転身した国土交通大臣(江口のりこ)しかいない、限定された役割の女がたまに顔を出すだけの男子校みたいな世界観を見て、何かひとこと言いたくなる気持ちはよくわかる。

カリカチュア的にそぎ落とし先鋭化した表現、あるいはメタ表現に慣れている視聴者は「わかっている」視聴者なので、このドラマを素直に楽しめるだけの距離を取ることができるのだが、どうも距離をつかめない、というか、物理的な男女の別に引っかかって本質にたどり着かない、中途半端なところで足踏みをしてしまう人がいる。それがボトルネックとなって『半沢直樹』の価値と楽しさを理解し損ねているのだとすれば、残念で仕方ない。