お国のためなら……! 女性たちの鬱屈を晴らす組織が誕生

それまで日本の女性は、“家”に封じ込められていました。家制度があった時代の結婚は、「好きな人の妻になる」ではなく「夫の家に嫁ぐ」だったのです。そして、家の嫁になったが最後、女性は家事や育児、姑の世話と、家を支える嫁としての役割に忙殺され、自由に外を出歩くことなどできなくなりました。

ところが国防婦人会に入れば、家よりももっと大事な“お国のため”という大義名分を得て、外でバリバリ活動できます。これは、家の閉塞感に苦しんでいた彼女たちにとっては最高の息抜き、この上ない解放感です。しかも、その活動内容から、「女性が社会の役に立っている」との充実感も得られます。

さらに、組織拡大の大きな要因として、彼女たちが“白のかっぽう着”をユニフォームとしたことも挙げられます。実はこの当時、別組織に愛国婦人会もあったのですが、ここはいわゆる良家の子女の組織だったため、一般庶民が参加するにはハードルが高かった。しかし国防婦人会は、そうではない。かっぽう着さえ着れば、金持ちも庶民もみんな一緒、平等です。しかも兵士の側からしても、お高くとまった良家の子女よりも、母性の温かみ漂うかっぽう着の女性たちに見送られたい……。

かくして国防婦人会は見る間に発展し、1934年(昭和9年)には陸軍後援の全国組織“大日本国防婦人会”に昇格し、1941年(昭和16年)には会員数が公称1000万人に。1942年(昭和17年)、ついに大日本国防婦人会は、愛国婦人会その他の婦人組織と統合され、“大日本婦人会”となっていくのです。

煮詰まる戦局で、国のとったメチャクチャな対応

しかし、その前後あたりから、次第に戦局が煮詰まり、出征兵士の増加とそれに伴う労働力不足が深刻化していきます。この事態に対処するために政府は、まず1941年(昭和16年)、女性の結婚適齢期を21歳としたうえで、各家庭で5人以上の子どもを持つよう求めました。いわゆる「産めよ増やせよ」、これも女性の“銃後の守り”のひとつとされました。それと同時に、現時点での労働力不足を補うため、16~25歳の未婚女性を軍需産業に“勤労動員”(=軍の管理下に集中)し、2年後には年齢の下限が満14歳以上に引き下げられます。さらに翌1944年(昭和19年)には“女子挺身隊”が組織され、ここから12~40歳の未婚の女性は、働くことが義務化されます。

『プレジデント ウーマン プレミア』でも少し書きましたが、一方で未婚女性は21歳で結婚しろと言いながら、もう一方では40歳まで働けというのは、かなり矛盾(というか余裕のなさ)を感じます。この頃は、政府も相当追い詰められていたのでしょう。