『プレジデント ウーマン プレミア』春号では戦時中に世界で見られた“銃後の守り”についてお話しました。銃後の守りとは、高齢者や年少者、女性など非戦闘員である国民が、戦場の兵士たちを背後から支える一種の後方支援活動のこと。当時、日本の女性たちが行った銃後の守りは、非常に興味深いものでした。
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※写真はイメージです(写真=iStock.com/AH86)

兵士を見送る、かっぽう着姿の女性たちの正体

みなさんは“国防婦人会”という組織をご存じですか? 戦時中の古い写真や映像でたまに見かける、かっぽう着にたすき姿で出征兵士を見送った、女性たちの団体です。あの光景、知らずに見ると家事の合間に、わが子や夫を見送りにきたお母さん方かと思ってしまいそうですが、そうではありません。実は彼女たち、別名“白い軍団”と呼ばれた巨大組織のメンバーだったのです。

国防婦人会は、大阪のとある主婦の自発的な活動から始まりました。満州事変翌年の1932年(昭和7年)、日本の大陸進出が本格化し始めたのを受けて、全国から出征兵士の多くが、当時の大陸進出の中継地点だった大阪に集まりました。連日多くの兵士たちが、大阪港から出征していきましたが、残念ながら彼らのほとんどは大阪以外の出身者だったため、その見送りはまばらでした。

「これはひどい! お国のために頑張ってくれる彼らのために、もっとちゃんと見送ってあげないと」……そう考えたのが、大阪の主婦・安田せいさんでした。彼女は近所の主婦仲間に声をかけ、同年、大阪国防婦人会を発足させたのです。

彼女たちの初期の活動は、非常に小規模なものでした。わずか数十人のメンバーが、街角で募金を募り、それを原資に兵士の見送りや出迎え、慰問活動や出征兵士の家族支援などを行う、といった程度のものです。ところがこの組織、その後、急速に拡大していきます。その理由は2つ。1つは軍の支援を受けたこと、もう1つは、女性の意識改革のきっかけになったことです。

お国のためなら……! 女性たちの鬱屈を晴らす組織が誕生

それまで日本の女性は、“家”に封じ込められていました。家制度があった時代の結婚は、「好きな人の妻になる」ではなく「夫の家に嫁ぐ」だったのです。そして、家の嫁になったが最後、女性は家事や育児、姑の世話と、家を支える嫁としての役割に忙殺され、自由に外を出歩くことなどできなくなりました。

ところが国防婦人会に入れば、家よりももっと大事な“お国のため”という大義名分を得て、外でバリバリ活動できます。これは、家の閉塞感に苦しんでいた彼女たちにとっては最高の息抜き、この上ない解放感です。しかも、その活動内容から、「女性が社会の役に立っている」との充実感も得られます。

さらに、組織拡大の大きな要因として、彼女たちが“白のかっぽう着”をユニフォームとしたことも挙げられます。実はこの当時、別組織に愛国婦人会もあったのですが、ここはいわゆる良家の子女の組織だったため、一般庶民が参加するにはハードルが高かった。しかし国防婦人会は、そうではない。かっぽう着さえ着れば、金持ちも庶民もみんな一緒、平等です。しかも兵士の側からしても、お高くとまった良家の子女よりも、母性の温かみ漂うかっぽう着の女性たちに見送られたい……。

かくして国防婦人会は見る間に発展し、1934年(昭和9年)には陸軍後援の全国組織“大日本国防婦人会”に昇格し、1941年(昭和16年)には会員数が公称1000万人に。1942年(昭和17年)、ついに大日本国防婦人会は、愛国婦人会その他の婦人組織と統合され、“大日本婦人会”となっていくのです。

煮詰まる戦局で、国のとったメチャクチャな対応

しかし、その前後あたりから、次第に戦局が煮詰まり、出征兵士の増加とそれに伴う労働力不足が深刻化していきます。この事態に対処するために政府は、まず1941年(昭和16年)、女性の結婚適齢期を21歳としたうえで、各家庭で5人以上の子どもを持つよう求めました。いわゆる「産めよ増やせよ」、これも女性の“銃後の守り”のひとつとされました。それと同時に、現時点での労働力不足を補うため、16~25歳の未婚女性を軍需産業に“勤労動員”(=軍の管理下に集中)し、2年後には年齢の下限が満14歳以上に引き下げられます。さらに翌1944年(昭和19年)には“女子挺身隊”が組織され、ここから12~40歳の未婚の女性は、働くことが義務化されます。

『プレジデント ウーマン プレミア』でも少し書きましたが、一方で未婚女性は21歳で結婚しろと言いながら、もう一方では40歳まで働けというのは、かなり矛盾(というか余裕のなさ)を感じます。この頃は、政府も相当追い詰められていたのでしょう。

この流れを好機ととらえていた女性解放運動家たち

実は大日本婦人会の女性たちは、この流れを歓迎していました。正確に言うと、一部の女性解放運動家たちは、勤労動員の流れのほうを歓迎していたのです。なぜなら、この頃、メンバーの多くは女性の社会進出と役割意識に目覚め始めていたからです。ならば、もう内助の功よりも、社会的地位を高めたい、男性と同等に働ける自分たちを認めさせたい、という気持ちになるのは、ある意味自然な流れです。そこで彼女たちの多くは、この流れにのり、そこから女性の工場労働者や銀行員、バスの運転手、鉄道車掌などが数多く生まれました。そう、終戦間近のこの時期、日本経済は間違いなく女性たちの銃後の守りによって支えられていたのです(※既婚女性は既婚女性で、家庭を守り人口戦を戦うという、別の意味での銃後の守りをしていました)。

残念ながら、彼女たちの多くは、戦後男性たちの復員で家庭に戻されてしまいますが、銃後の守りは無駄ではありませんでした。戦時中の女性労働は高く評価され、労働に男女の能力差がないことを、広く世に知らしめたのです。その結果、1947年に制定された労働基準法で、日本の女性は世界で初めて「男女同一賃金」を法的に勝ち取ったのです。