欲深く、かつ知性豊かだった「憤死教皇」

ボニファティウス8世の名は「憤死(怒り狂って死ぬという意味)」という言葉と共に、歴史に刻まれています。元々、腎臓が悪く、そこに激しい怒りが加わったため、体がもたなかったと見られています。

ボニファティウス8世は世俗の欲にまみれた人物で、文学者のダンテなども「地獄に堕ちた教皇」と酷評しています。派手好きで、きらびやかな宝石を身に付けていました。博打に入れ込む体質の人間で、夜な夜な教皇庁をカジノのようにしたとされます。また、大変な好色家で、多くの高級売春婦が教皇庁を出入りしました。

一方で、ボニファティウス8世は知性豊かな人物で、教会法に精通していました。若いときから学識が際立っており、枢機卿時代には、その学識ゆえに、教皇から信頼を得ていました。教皇に選ばれてからは、ヴァチカンの公文書保管庫を改造して、蔵書の目録をつくらせたり、ローマ大学を創設したり、ジョットら芸術家のパトロンとなり、文化を保護しました。

ボニファティウス8世は合理主義者で、教皇でありながら、信仰心を持たず、「イエス・キリストは自分の身さえ救うことのできなかった男だ。そんな男が他人のために何ができるというのだ」と言っていました。

前述のとおり、ローマ教皇は枢機卿たちの中から、コンクラーベと呼ばれる互選選挙で選出されます。そのため、枢機卿たちをカネの力で買収できた者が教皇に選ばれる仕組みになっていました。教皇はボニファティウス8世に限らず、俗世の権力闘争に長けた者がその座を得て、金権政治をはびこらせていました。

こうした腐敗が常態化し、カトリックの最高指導者としての教皇は、多くの敬虔な人々から疑いの目で見られ、その権威を失墜させていました。フィリップ4世はこのような状況を好機と捉え、フランス国内から教皇の影響力を排除します。そして、教皇と激しく対立し、1303年、アナーニ事件を起こします。

当時、教皇が憤死したというニュースは人々の失笑を買いました。ボニファティウス8世がフランスに連行されていれば、人々は事態を真剣に捉え、フランス王を批判したかもしれません。フランス王にとっては、教皇の憤死という結末はこの上なく好都合でした。

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宇山 卓栄(うやま・たくえい)
著作家

1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。代々木ゼミナール世界史科講師を務め、著作家。テレビ、ラジオ、雑誌、ネットなど各メディアで、時事問題を歴史の視点でわかりやすく解説。近著に『朝鮮属国史――中国が支配した2000年』(扶桑社新書)、『「民族」で読み解く世界史』、『「王室」で読み解く世界史』(以上、日本実業出版社)など、その他著書多数。