教皇はどうやって選ばれるか

「カトリック」という言葉はギリシア語で「普遍的」を意味する言葉から来ています。異端や分派に対し、ローマ教会が自らの正統性を主張するため、この言葉を用い、ローマ教会は「ローマ・カトリック」と呼ばれるようになります。特に、ローマ教会が東方のコンスタンティノープル教会との対立を強めていく8世紀以降に、東方の異端者に対し「カトリック」という言葉が使われるようになります。

教皇はキリストの12使徒の一人ペトロの後継者です。キリストの死後、ペトロがローマにやって来て、この地に教会を開きました。

当初、ローマ帝国の迫害を受けながらも、ローマ教会は信徒により守られ、発展していきます。ローマ帝国が4世紀にキリスト教を公認して以降、ローマ教会の地位が確立し、その主座である教皇の地位も認知されました。教皇は使徒ペトロに由来する特別な起源を持つことから、キリスト教世界の指導者となります。

5世紀半ばの教皇レオ1世は「わが声はペトロの声なり」と述べ、イエスや使徒の代理人を自認します。教皇の位は歴代引き継がれ、今日まで続き、現在のフランシスコ教皇聖下は266代目です。

フランシスコ聖下はイタリア系アルゼンチン人です。教皇はイタリア人から選出されることが多かったのですが、近年では、先々代のヨハネ・パウロ2世(在位1978‐2005年)がポーランド人、先代のベネディクト16世(在位2005‐2013年)がドイツ人であり、イタリア人以外からの選出が続いています。

教皇は各地のカトリック教会を代表する枢機卿(カーディナル)たちが「コンクラーベ」(ラテン語で「鍵がかけられた」の意)という選出会に集まり、外部と隔離された状態で教皇を選挙します。従って、教皇位の継承は世襲ではありません。

皇帝や王を従属させる

13世紀、教皇権力の絶頂期にあったインノケンティウス3世が「教皇は太陽、皇帝は月」と教皇権の強大さをたとえたことがありました。この時代、教皇は皇帝や王を従属させていました。教皇に逆らった神聖ローマ皇帝が教皇に跪いて、許しを請うた「カノッサの屈辱」という事件などもありました。

高校で世界史を履修した人ならば、「憤死教皇」ボニファティウス8世(在位1294‐1303年)について覚えておられると思います。

11世紀末以降、教皇は神の軍隊として十字軍を組織し、一時期は聖地イェルサレムを奪還しました。しかし、最終的に失敗し、中東の広大な領域をイスラム勢力に奪われ、教皇は十字軍に参加した諸侯たちに領土を分け与えることもできませんでした。

何も得られなかった各地の諸侯たちは国王に接近し、それによって、国王の力が強まり、フランス王のフィリップ4世がボニファティウス8世に脅しをかけます。

フィリップ4世は二人の家臣に、ボニファティウス8世への襲撃を行わせます。一人は王の腹心の家臣ギヨーム・ド・ノガレで、もう一人はローマの名門貴族のシアッラ・コロンナです。コロンナ家はボニファティウス8世の政敵であり、ボニファティウス8世が彼らの財産を没収し、ローマから追放しました。コロンナ家は、フランス王に匿われていました。二人とも、ボニファティウス8世に深い恨みを抱いていました。

フィリップ4世は二人に、アナーニで静養中のボニファティウス8世を捕え、フランスに連行するよう指示していました。しかし、シアッラ・コロンナはその場で、ボニファティウス8世を殺そうとします。それをノガレが制止したため、両者は激しい口論になり、長々と言い争いました。そうこうしているうちに、衛兵が踏み込んで来て、ボニファティウス8世は救出されました。

襲撃者が喧嘩となって、その間に教皇を逃してしまったということもまた、失態でした。ボニファティウス8世は殴る蹴るの暴行を受けていましたが、何とか無事にアナーニからローマに帰還しますが、この襲撃事件に激しく怒り、憤死したとされます(アナー二事件)。