※本稿は、北川智子『日本史を動かした女性たち』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。
17世紀のオーストリアでオペラのヒロインになったガラシャ
1600(慶長5)年、関ヶ原の合戦の直前に、ある女性が自ら命を絶ちました。その女性はガラシャと呼ばれ、彼女の存在はヨーロッパにも伝わり、ラテン語でオペラにもなっています。
オペラのタイトルは“Mulier fortis, cuius pretium de ultimis finibus, sive Gratia Regni Tango Regina exantlatis pro Christo aerumnis clara.”
短くは、Mulier fortis、つまり、『強い女』というタイトルです。
ガラシャの日本語名は玉でした。彼女は明智家に生まれ、細川忠興の正室となりました。父の明智光秀が1582年に信長を暗殺した後、その仇を討った秀吉が台頭してきます。明智家の出である彼女は今までどおりに暮らすことが難しくなり、夫や細川の一族から断絶され、京都の丹後の山奥、味土野に幽閉されることになりました。
名門細川家に嫁いだが、父の光秀が謀反を起こし幽閉される
幽閉された場所は後に「女城」と呼ばれるように、玉と彼女の侍女だけが暮らす孤城です。彼女たちの護衛さえも、女城からは離れた丘に建てられた「男城」に詰めているという徹底した幽閉状態でした。玉の侍女としては、学識のある名家の清原家から、いとという女性がそばについていました。清原いとの父は儒教の学者でありながら、いち早く1560年代のはじめにクリスチャンの洗礼を受けていました。
玉の幽閉期間は1年以上に及びます。1584年に豊臣秀吉が細川忠興に玉との復縁を許すと、細川から豊臣への人質として、大坂に建てられた細川邸に住むようになります。丹後の山奥での幽閉を解かれたものの、玉は大坂でも、自由に身動きがとれない軟禁状態に置かれます。
大坂で玉が住むことになった邸宅は、豊臣期に栄えていく大坂城下にあり、後に秀吉の正室・ねねが管理権を持つ玉造という地域にありました。大坂の町が栄えてくる時代を、玉は、侍女とともに大坂で過ごすことになります。
大坂に引っ越してからは、屋敷に軟禁とはいえ、女城の時よりは、外界と接触できたようです。城下町に広がるキリスト教の布教の様子を玉も知ることになり、玉は徐々にキリスト教に感化されていきます。当時、ねねが大坂城内にキリシタン名の侍女を持っていたように、高貴な身分の女性たちは、イエズス会の布教活動に触れる機会があったのです。細川邸からも、玉の侍女たちが大坂の教会に通うようになり、また玉自身も、侍女たちとともに大坂の教会に一度だけお忍びで出向きました。