38年ぶりに来日したローマ教皇。広島や長崎での、核兵器の廃絶を訴えた演説は多くの人に感動を与えました。現在のフランシスコ教皇は266代目で、イタリア系のアルゼンチン人です。そもそも教皇とはどうやって選ばれ、どういった力を持つのでしょうか。カトリック教会の歴史をひもときながら見ていきます。
※写真はイメージです(写真=iStock.com/Massimo Merlini)

「法王」が「教皇」に変わった理由

ローマ教皇が2019年11月23日、38年ぶりに来日されました。1981年のヨハネ・パウロ2世のとき以来です。フランシスコ教皇聖下は3日間、日本に滞在し、被爆地の広島や長崎を訪問され、核兵器の廃絶を訴えられました。教皇の演説は多くの人々に感銘を与えました。この演説を日本の周囲の核保有国や核保有国とされる国にこそ、真摯に聞いて頂きたいものです。

以前、ローマ教皇を「ローマ法王」と言い表していたメディアも、今回から「ローマ教皇」でほとんど揃えています。

カトリック教会は「教皇」を正式な呼び名としています。1943年、日本とバチカン(ローマ教皇庁)が外交関係を樹立したとき、「法王」を定訳としたため、日本では、この呼び名が慣例となっていますが、カトリック教会は、世俗の君主のイメージの強い「王」という字を含む「法王」でなく、「教える」という字を含む「教皇」のほうがふさわしいとしています。

また、「王」でなく「皇」とするのも、かつて、教皇が皇帝(神聖ローマ皇帝など)と並び立つ存在であったという歴史的経緯を勘案されたものと考えられています。

今回、「法王」から「教皇」の呼称にメディアが一斉に変わったのは、韓国が天皇を「日王」と呼ぶ非礼とも関係していると指摘する識者もいます。文喜相(ムン・ヒサン)韓国国会議長が2019年2月7日、ブルームバーグのインタビューで、従軍慰安婦問題で、天皇が謝罪すべきと発言しました。日本のメディアでは、文議長の発言を「天皇」と訳し変えて伝えていますが、文議長は実際には、「天皇」とは言っておらず、「王」と韓国語で言い表しています。

日本のメディアもこうした他国の非礼から学び、称号に対して、一層の注意を払うべきとして、「教皇」の呼称に揃えたようです。

教皇はどうやって選ばれるか

「カトリック」という言葉はギリシア語で「普遍的」を意味する言葉から来ています。異端や分派に対し、ローマ教会が自らの正統性を主張するため、この言葉を用い、ローマ教会は「ローマ・カトリック」と呼ばれるようになります。特に、ローマ教会が東方のコンスタンティノープル教会との対立を強めていく8世紀以降に、東方の異端者に対し「カトリック」という言葉が使われるようになります。

教皇はキリストの12使徒の一人ペトロの後継者です。キリストの死後、ペトロがローマにやって来て、この地に教会を開きました。

当初、ローマ帝国の迫害を受けながらも、ローマ教会は信徒により守られ、発展していきます。ローマ帝国が4世紀にキリスト教を公認して以降、ローマ教会の地位が確立し、その主座である教皇の地位も認知されました。教皇は使徒ペトロに由来する特別な起源を持つことから、キリスト教世界の指導者となります。

5世紀半ばの教皇レオ1世は「わが声はペトロの声なり」と述べ、イエスや使徒の代理人を自認します。教皇の位は歴代引き継がれ、今日まで続き、現在のフランシスコ教皇聖下は266代目です。

フランシスコ聖下はイタリア系アルゼンチン人です。教皇はイタリア人から選出されることが多かったのですが、近年では、先々代のヨハネ・パウロ2世(在位1978‐2005年)がポーランド人、先代のベネディクト16世(在位2005‐2013年)がドイツ人であり、イタリア人以外からの選出が続いています。

教皇は各地のカトリック教会を代表する枢機卿(カーディナル)たちが「コンクラーベ」(ラテン語で「鍵がかけられた」の意)という選出会に集まり、外部と隔離された状態で教皇を選挙します。従って、教皇位の継承は世襲ではありません。

皇帝や王を従属させる

13世紀、教皇権力の絶頂期にあったインノケンティウス3世が「教皇は太陽、皇帝は月」と教皇権の強大さをたとえたことがありました。この時代、教皇は皇帝や王を従属させていました。教皇に逆らった神聖ローマ皇帝が教皇に跪いて、許しを請うた「カノッサの屈辱」という事件などもありました。

高校で世界史を履修した人ならば、「憤死教皇」ボニファティウス8世(在位1294‐1303年)について覚えておられると思います。

11世紀末以降、教皇は神の軍隊として十字軍を組織し、一時期は聖地イェルサレムを奪還しました。しかし、最終的に失敗し、中東の広大な領域をイスラム勢力に奪われ、教皇は十字軍に参加した諸侯たちに領土を分け与えることもできませんでした。

何も得られなかった各地の諸侯たちは国王に接近し、それによって、国王の力が強まり、フランス王のフィリップ4世がボニファティウス8世に脅しをかけます。

フィリップ4世は二人の家臣に、ボニファティウス8世への襲撃を行わせます。一人は王の腹心の家臣ギヨーム・ド・ノガレで、もう一人はローマの名門貴族のシアッラ・コロンナです。コロンナ家はボニファティウス8世の政敵であり、ボニファティウス8世が彼らの財産を没収し、ローマから追放しました。コロンナ家は、フランス王に匿われていました。二人とも、ボニファティウス8世に深い恨みを抱いていました。

フィリップ4世は二人に、アナーニで静養中のボニファティウス8世を捕え、フランスに連行するよう指示していました。しかし、シアッラ・コロンナはその場で、ボニファティウス8世を殺そうとします。それをノガレが制止したため、両者は激しい口論になり、長々と言い争いました。そうこうしているうちに、衛兵が踏み込んで来て、ボニファティウス8世は救出されました。

襲撃者が喧嘩となって、その間に教皇を逃してしまったということもまた、失態でした。ボニファティウス8世は殴る蹴るの暴行を受けていましたが、何とか無事にアナーニからローマに帰還しますが、この襲撃事件に激しく怒り、憤死したとされます(アナー二事件)。

欲深く、かつ知性豊かだった「憤死教皇」

ボニファティウス8世の名は「憤死(怒り狂って死ぬという意味)」という言葉と共に、歴史に刻まれています。元々、腎臓が悪く、そこに激しい怒りが加わったため、体がもたなかったと見られています。

ボニファティウス8世は世俗の欲にまみれた人物で、文学者のダンテなども「地獄に堕ちた教皇」と酷評しています。派手好きで、きらびやかな宝石を身に付けていました。博打に入れ込む体質の人間で、夜な夜な教皇庁をカジノのようにしたとされます。また、大変な好色家で、多くの高級売春婦が教皇庁を出入りしました。

一方で、ボニファティウス8世は知性豊かな人物で、教会法に精通していました。若いときから学識が際立っており、枢機卿時代には、その学識ゆえに、教皇から信頼を得ていました。教皇に選ばれてからは、ヴァチカンの公文書保管庫を改造して、蔵書の目録をつくらせたり、ローマ大学を創設したり、ジョットら芸術家のパトロンとなり、文化を保護しました。

ボニファティウス8世は合理主義者で、教皇でありながら、信仰心を持たず、「イエス・キリストは自分の身さえ救うことのできなかった男だ。そんな男が他人のために何ができるというのだ」と言っていました。

前述のとおり、ローマ教皇は枢機卿たちの中から、コンクラーベと呼ばれる互選選挙で選出されます。そのため、枢機卿たちをカネの力で買収できた者が教皇に選ばれる仕組みになっていました。教皇はボニファティウス8世に限らず、俗世の権力闘争に長けた者がその座を得て、金権政治をはびこらせていました。

こうした腐敗が常態化し、カトリックの最高指導者としての教皇は、多くの敬虔な人々から疑いの目で見られ、その権威を失墜させていました。フィリップ4世はこのような状況を好機と捉え、フランス国内から教皇の影響力を排除します。そして、教皇と激しく対立し、1303年、アナーニ事件を起こします。

当時、教皇が憤死したというニュースは人々の失笑を買いました。ボニファティウス8世がフランスに連行されていれば、人々は事態を真剣に捉え、フランス王を批判したかもしれません。フランス王にとっては、教皇の憤死という結末はこの上なく好都合でした。