小豆原の埋没林はおよそ4000年前の杉の木だ。ここにはかつて、1000年以上の年月をかけて育った杉林が広がっていたらしく、約4000年前に発生した三瓶山の噴火により、その一部が地中に埋まって姿を残すこととなった。
本来、火砕流や土石流は木々をなぎ倒して流れていくが、小豆原の場合は、たまたま付近を流れる小豆原川と伊佐利川が合流する谷に近かったことから、土石流が滞留。杉の巨木は倒されることなく、今日まで地中で深々と眠り続けることになったわけだ。
この三瓶小豆原埋没林が発見されたのは、1983年のこと。といってもこのときは、水田の区画整備を行う際に、地中から現れた木を工事の障害物と判断し、切断して排除してしまっている。学術的価値がまだ知られていなかったためだ。
しかし、その後もたびたび地中から木が出現することから、98年に入ってから本格的な調査が行われることになった。そしてボーリング調査やレーダー探査によって、地中に巨木群が埋もれていることが判明し、急速に発掘と研究が進められたのだ。
その結果、巨大な杉の木が4000年ぶりに太陽の日差しを浴びたのは、ちょうど2000年のことである。今日、縄文時代の原始林の一角がこうして人目に触れているのは、多くの偶然が作用してのことなのだ。
禁教下で信仰し続けた人々の苦しみの跡
2018年、潜伏キリシタン関連遺産の一部として、熊本県・天草の﨑津集落が世界文化遺産に登録されたのは記憶に新しいところだろう。
イエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルによって、1549年に日本に伝えられたキリスト教。伝来期にはとりわけ長崎と熊本・天草地方で集中的に宣教が行われたことが、この地域に関連史跡が多く残っている理由だ。
では、なぜキリシタンが潜伏しなければならなかったのかといえば、豊臣秀吉のバテレン追放令や、江戸幕府の禁教令に端を発している。宣教師は国外追放、すべての教会堂は破壊されたことで、彼らは日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら、秘密裏に信仰を続けなければならなかったのだ。
秀吉がバテレン追放令を発令した理由については諸説ある。キリスト教の広がりが神社仏閣の迫害を生んだためとも、外交権や貿易権を自身に集中させるためともいわれるが、真相はわからない。
一方、江戸幕府は当初、キリスト教に対して寛容だったといわれるが、キリスト教徒たちが幕府の支配を拒んだことから、次第に態度を硬化させていったと伝えられている。