教科書で習った歴史や、本で読んだことがある日本文化――。実際に見て肌で感じて、学びませんか。お金に換えられない経験は、何倍にもなって自分に返ってくるはずです!

“眼下”にそびえる4000年前の巨木

南北に弓なりに延びる日本列島は、気候や文化、歴史において、地域ごとにさまざまな特色を持っている。だから、ほんの1~2泊のショートトリップであっても、視点を変えるだけで普段暮らしている地域にはない新鮮な発見が得られるはずだ。ここではそんな学びや発見のある旅の目的地を提案。まさに自己投資にもってこいの7つのスポットを順に紹介したい。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/motive56)

まず取り上げるのは埋没林だ。埋没林とは、火山活動による火砕流にのみ込まれるなどして、森林の全体(または一部)がそのまま地中に埋没したもの。樹木が化石のように土中で保存され、生きていた当時の姿を今日に残す、学術的にも貴重な遺産となっている。

日本にはこうした埋没林が全国におよそ40カ所確認されており、なかでも島根県の「さん小豆あずきはら埋没林」は、長大な幹が直立した状態で残った、世界でも珍しいサンプルだ。地上の平地に設けられたゲートをくぐると、らせん状の階段が延々と地下13mの深さまで続く。眼下に杉の巨木がそびえ立つ光景は圧巻だ。

小豆原の埋没林はおよそ4000年前の杉の木だ。ここにはかつて、1000年以上の年月をかけて育った杉林が広がっていたらしく、約4000年前に発生した三瓶山の噴火により、その一部が地中に埋まって姿を残すこととなった。

本来、火砕流や土石流は木々をなぎ倒して流れていくが、小豆原の場合は、たまたま付近を流れる小豆原川と伊佐利川が合流する谷に近かったことから、土石流が滞留。杉の巨木は倒されることなく、今日まで地中で深々と眠り続けることになったわけだ。

この三瓶小豆原埋没林が発見されたのは、1983年のこと。といってもこのときは、水田の区画整備を行う際に、地中から現れた木を工事の障害物と判断し、切断して排除してしまっている。学術的価値がまだ知られていなかったためだ。

しかし、その後もたびたび地中から木が出現することから、98年に入ってから本格的な調査が行われることになった。そしてボーリング調査やレーダー探査によって、地中に巨木群が埋もれていることが判明し、急速に発掘と研究が進められたのだ。

その結果、巨大な杉の木が4000年ぶりに太陽の日差しを浴びたのは、ちょうど2000年のことである。今日、縄文時代の原始林の一角がこうして人目に触れているのは、多くの偶然が作用してのことなのだ。

禁教下で信仰し続けた人々の苦しみの跡

2018年、潜伏キリシタン関連遺産の一部として、熊本県・天草の﨑津集落が世界文化遺産に登録されたのは記憶に新しいところだろう。

イエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルによって、1549年に日本に伝えられたキリスト教。伝来期にはとりわけ長崎と熊本・天草地方で集中的に宣教が行われたことが、この地域に関連史跡が多く残っている理由だ。

では、なぜキリシタンが潜伏しなければならなかったのかといえば、豊臣秀吉のバテレン追放令や、江戸幕府の禁教令に端を発している。宣教師は国外追放、すべての教会堂は破壊されたことで、彼らは日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら、秘密裏に信仰を続けなければならなかったのだ。

秀吉がバテレン追放令を発令した理由については諸説ある。キリスト教の広がりが神社仏閣の迫害を生んだためとも、外交権や貿易権を自身に集中させるためともいわれるが、真相はわからない。

一方、江戸幕府は当初、キリスト教に対して寛容だったといわれるが、キリスト教徒たちが幕府の支配を拒んだことから、次第に態度を硬化させていったと伝えられている。

やがて、ただでさえ圧政に耐えかねていたキリシタンたちは蜂起し、大規模な一揆を起こすことになる。それが「天草・島原の乱」だ。

寛永14年(1637)から翌15年(1638)まで続いたこの反乱は、数千人規模の死傷者を生んだといわれる。最終的には幕府側の総攻撃で一揆軍は鎮圧されるが、その後も潜伏キリシタンは社会の中でひそかに信仰を続けることになる。

天草にはそんな禁教下で信仰を継続した人々の痕跡が随所に残っている。たとえば﨑津集落内には十字架をあしらった墓があちこちに見られる。ひときわシンボリックな﨑津教会は、禁教期に絵踏みが行われた場所に立ち、この教会で司祭を務めていたハルブ神父の墓もある。

集落外にも関連史跡は多い。本渡町の明徳寺は島原の乱の後に初めて建てられた禅寺で、仏教を広めることで人々の心を鎮めようとしたもの。参道の石段にかすかに残る十字の彫り物は、絵踏みを狙った造りで、十字架を踏みながら上らなければならない仕組みになっている。

また、町山口川に架かる祇園橋は、島原の乱において一揆軍と唐津藩が激突し、鮮血に染まった現場である。往時の悲しい記憶をかみ締めながら散策してほしい。

日本史に名を残すヒーロー2人のゆかりの地

坂本龍馬もまた、日本の歴史を知るうえで欠かせない人物だろう。江戸時代末期の志士である龍馬は、薩長同盟成立に協力するなど、倒幕と明治維新に多大な影響を及ぼした、歴史上のスターである。

高知県においてはご当地が生んだ最大のヒーローで、太平洋に面した景勝地・かつらはまには、その功績をたたえる銅像が立てられている。これは1928年に熱心な龍馬ファンたちの寄付によって造られたもの。大海原に視線を向けて立つその姿からは、龍馬が持つダイナミズムが存分に感じられるはずだ。

りゅうみさきりゅうおうざきの間に弓状に広がる桂浜は、古くから月の名所としてもよく知られている。付近には桂浜水族館もあり、老若男女を問わず楽しむことができるだろう。高知の海の幸と併せて楽しんでほしい。

もうひとつ、日本の歴史に名を残す人物ゆかりのスポットを、東北地方からピックアップしたい。

青森県東北町の「日本中央の碑」は、平安時代にせい大将軍を2度務めた武官、坂上田村麻呂が遺したとされる石碑である。高さ1.8mほどの自然石で、表面には「日本中央」の文字が見て取れる。

和歌に詳しい人なら「つぼのいしぶみ」という言葉をご存じかもしれない。漢字に直せば「壺の碑」。12世紀末に、歌学者・藤原顕昭が編さんした『袖中抄』によれば、「壺の碑」とは蝦夷えみしせいとうの途中で、田村麻呂が弓はず(弦をかける部分)を使って巨石に「日本中央」と彫ったものであるという。

「壺の碑」は寂蓮法師や顕昭など多くの歌人の作品で歌枕として用いられ、かの源頼朝までもが、「陸奥のいはでしのぶはえぞしらぬ 書尽してよつぼのいしぶみ」と詠んでいる。いずれの歌でも、行方の知れないもの、はるか遠くにあるものとして扱われ、本当に実在するのかどうかが長く議論されてきた。そんな中、1949年に東北町の赤川上流で、表面に「日本中央」と彫られた巨石が発見されたのだから、世の研究家が色めき立つのも無理はない。

実際には田村麻呂が青森まで到達した記録はなく、しんがんについては今なお論争が続いているが、この地域には田村麻呂が創始したと伝えられる千曳神社も存在。この巨石が展示される「日本中央の碑歴史公園」にはさまざまな資料があるので、自分なりに解釈を巡らせるのもオツだ。

伽藍、観音像、古墳――首都圏近郊の史跡たち

古都・鎌倉のほど近く、真言宗大覚寺派・田谷山定泉寺の境内に、知る人ぞ知る不思議な洞窟がある。

通称、田谷の洞窟。正式名称を「田谷山どう」というこの洞窟は、修行僧によって掘られた伽が藍らん(僧侶たちの修行の場)で、総延長は実に1km余りに及ぶと伝えられている。参拝者は受付で拝観料を納め、受け取ったロウソクの明かりを頼りに暗闇の奥へと進んでいく。少し足を進めたところで、誰もが息をのむに違いない。壁面や天井に彫られた、あまりにも見事な仏像や仏画の数々に――。

ほの暗くせいひつなこの洞窟内には、なんと300以上もの彫刻が施されている。さらに特筆すべきは、この地下空間が3層仕立ての複雑な構造を持ち、下層の通風孔越しに上層の仏画が見られるよう設計されるなど、非常に高度な土木技術が使われていることだ。修行僧たちの苦行の結晶として、誰しも感じ入るものがあるだろう。

千葉県ののこぎりやまには、約1300年前に開山したほんの寺域が広がっている。最大の見どころは、石切場跡の岸壁に彫られた巨大な百尺観音だ。これは戦没者と交通事故犠牲者の供養を目的に彫り込まれたがいぶつで、その名の通り高さが百尺(約30m)もある巨大なもの。トレッキングの途中で、心身を落ち着かせて手を合わせよう。

最後に、今回最も都心に近いスポットが、東京・代官山駅から徒歩5分ほどの街中にある猿楽塚古墳だ。古墳時代後期、6~7世紀に造られた直径約20m、高さ約5mの円墳が、しゃれた店舗が多く並ぶ旧山手通り沿いに存在するというギャップがいかにも面白い。手軽に古代の文化に触れられるスポットだ。

▼地中に埋もれた自然の遺産。縄文時代の杉林の姿がそこに

▼天草地方の潜伏キリシタン関連遺産

▼今も点在するキリスト教弾圧の痕跡。信仰のあり方を学ぶ世界文化遺産

▼坂本龍馬像が静かにたたずむ土佐随一の月の名所

▼これは坂上田村麻呂が遺した伝説の「壺の碑」なのか!?

▼密教僧たちが手掘りした広大な地底の伽藍

▼石切場に出現する巨大観音像