「女の子も何だってできる」と教えてくれた父
私は1970年代にスリランカで生まれました。父が国連の仕事をしていたので、3歳のときからアフリカやネパール、バングラデシュ、ブルネイなどで暮らし、さまざまなジェンダーや年齢の人、国籍や肌の色が違う人たちと出会ってきました。そういった発展途上国は男性が支配する社会で、特に私が生まれ育った1970年代、80年代は女性が大学に進んで安定した職に就けるような環境ではありませんでした。実際に私の母は学業を高校までで辞めてしまっています。
そういう時代ではありましたが、私の両親は常に兄だけでなく私にも「大学は必ず行くものだ」と言い聞かせてくれました。父は「勇気を持って強くなりなさい。お前は女の子だけど、それは問題じゃない。何だってできるんだ」と教えてくれましたし、母も「勉強を続けて自立した女性になりなさい」と言ってくれました。ですから、家庭環境はとても恵まれていたと思います。
年上の男性たちに教える難しさ
私は人文社会学系の勉強が得意だったので、メルボルン大学ではマーケティングを学びました。幸い、学士過程で良い成績を収めることができ、博士号も取得しました。そのときの私は「学んだことを人に共有したい」という思いが強く、教師になりたかったんですね。そこで、メルボルン大学のビジネススクールで、マーケティングについて教えることになりました。
しかし、当時27歳の私が教壇に立つことは簡単ではありませんでした。そこには生徒としてMBA(経営修士号)取得を目指す社会人たちが集まっています。オーストラリア人から見れば私は小柄ですし、若いし、見た目もちがう。35歳、40歳という年齢の男性が教室の椅子でふんぞり返り「いったい君に何が教えられるんだ?」という目で見る中、自分の良さを出すのは難しいことでした。講師として効果的な話し方、聞き方を学び研究する日々でした。
その後、まだ若かったこともあり、「もっと速いスピードで仕事をしたい」という思いが強くなって、コンサルティング会社のガートナーに入りました。そこで5年間、企業人として充実した時間を過ごしました。