父が母の料理に一切手をつけなくなった理由

母はいつもかっぽう着を身にまとい、キッチンに立つ姿が印象に残っています。私は生後6カ月から11歳まで台湾で生活していたので、母の味といえば台湾料理と日本料理。母は両方をバランスよく、上手に取り入れていたのだと感心します。父はすごくお酒飲みだったので、夕食は3時間ほどかけて楽しみます。家には中国式の円卓があって、おつまみから始まり、野菜料理からメインの料理まで順にお皿が並んでいく。母は絶えずキッチンとテーブルを行き来していました。

(上)生後6カ月から11歳まで暮らした台湾。(下)家を解体するとき、赤い和紙が貼られている箱を見つけた。そこには結婚前に父と母が交わした手紙や子どもたちへの手紙、母が綴っていたノートが入っていた。「母は父の人生を書き残したかったのでしょう」

朝も子どもたちが寝坊して、学校に遅刻しそうなときでも、「ごはんをちゃんと食べることのほうが大事よ」と(笑)。そんな母がおやつ代わりによくつくってくれたのは、瓜仔肉(グワーズロー)と呼ばれる台湾風ハンバーグ。豚ひき肉にみじん切りのキュウリの漬物をあえ、塩漬け卵の黄身をのせて蒸したもので、ご飯にもパンにも合います。甘いデザートでは、豆乳でつくるプリンのような「豆花(トウファ)」も忘れられない母の味です。

母と一緒に市場へ行くのも楽しみでした。母は中国語を習い、値切りながら買い物もできるようになっていました。台湾の生活に溶け込んでいて、子どもの私は母が抱える苦労を知ることもなかったのです。

父はまったく怒らない寡黙な人だったので、いつも明るい母が我が家の中心にいました。私たち家族の日本での生活が始まると、父は台湾との行き来で留守がちでしたが、手紙のやりとりも続き、家族の日々は穏やかに流れていたのです。

ところが、ある時を境に両親の口数が少ないことに気づきました。私は何が起きているのか知りたくて、手掛かりがないかと探したところ、90分テープが入ったテープレコーダーを見つけました。録音されていたのは、母と病院の主治医と親戚の人たちの会話。父は肺がんで余命1年もないと告げられ、本人に告知しないことを話し合っていたのです。

私は病名も知らないふりをして、自分にできることをしようと決めました。父は本当の病名を告げない母に怒りを覚え、ひと言も口をきかず、母の料理に一切手をつけなくなった。母が何を聞いても答えないけれど、私や妹とは話してくれたので、私たちは両親の間で伝言係を務めたのです。

父の「だんまり」は死の直前まで1年半くらい続きました。それでも唯一、家族をつなげていたのは母の料理だったと思います。母の伝言には「パパに何を食べたいか聞いてちょうだい」とか「これができたから病院へ持って行ってね」と父への気遣いがあり、希望を捨てずに料理をつくり続けていたのです。

母は私たちの前で泣いたり、弱音を漏らすこともなかったけれど、その胸に秘めた苦悩も残された日記で知ることになります。あのとき母は40歳。“果たして、今の自分にそれができるだろうか……”と、身につまされる思いでした。