※本稿は「プレジデントウーマン」(2018年2月号)の連載「母の肖像」を再編集したものです。
亡くなった父と母の手紙と日記で初めて知ったこと
最初に書いた『私の箱子(シャンズ)』は父の人生をたどる物語でした。きっかけは、台湾人の父と日本人の母、私と妹の4人で暮らした家を取り壊すときに段ボールの中に見つけた赤い「箱子(シャンズ)」。そこには、父から母への手紙、母から父への手紙、母が書き残した日記などが入っていたのです。
父は私が14歳のときに亡くなり、23歳になる年に母も逝きました。それから十数年後、親族や知人を訪ねると、父の過去を語ってくれる人はたくさんいました。けれど家族の記憶をさかのぼると、母について何も知らないことに気づいたのです。
父は台湾五大財閥の1つである顔家の長男。昭和一桁生まれの父は幼少期から日本で教育を受け、40歳を超えてから16歳下の母と出会いました。2人は恋に落ちて結婚を決意しますが、母はそこで初めて、父の実家が台湾の大財閥であることを知らされたようです。
母が結婚する前に父へ送った手紙には、日本でつましい家庭に育った自分が顔家に受け入れられるのかという不安が綴られています。父が心配はいらないと伝え、母もようやく決心したのでしょう。そうした父との出会いや母の思いは生前に知る由もなかったけれど、残された手紙や日記などからパズルをはめ込むようにたどり、2冊目の『ママ、ごはんまだ?』という物語を書きました。
父が母の料理に一切手をつけなくなった理由
母はいつもかっぽう着を身にまとい、キッチンに立つ姿が印象に残っています。私は生後6カ月から11歳まで台湾で生活していたので、母の味といえば台湾料理と日本料理。母は両方をバランスよく、上手に取り入れていたのだと感心します。父はすごくお酒飲みだったので、夕食は3時間ほどかけて楽しみます。家には中国式の円卓があって、おつまみから始まり、野菜料理からメインの料理まで順にお皿が並んでいく。母は絶えずキッチンとテーブルを行き来していました。
朝も子どもたちが寝坊して、学校に遅刻しそうなときでも、「ごはんをちゃんと食べることのほうが大事よ」と(笑)。そんな母がおやつ代わりによくつくってくれたのは、瓜仔肉(グワーズロー)と呼ばれる台湾風ハンバーグ。豚ひき肉にみじん切りのキュウリの漬物をあえ、塩漬け卵の黄身をのせて蒸したもので、ご飯にもパンにも合います。甘いデザートでは、豆乳でつくるプリンのような「豆花(トウファ)」も忘れられない母の味です。
母と一緒に市場へ行くのも楽しみでした。母は中国語を習い、値切りながら買い物もできるようになっていました。台湾の生活に溶け込んでいて、子どもの私は母が抱える苦労を知ることもなかったのです。
父はまったく怒らない寡黙な人だったので、いつも明るい母が我が家の中心にいました。私たち家族の日本での生活が始まると、父は台湾との行き来で留守がちでしたが、手紙のやりとりも続き、家族の日々は穏やかに流れていたのです。
ところが、ある時を境に両親の口数が少ないことに気づきました。私は何が起きているのか知りたくて、手掛かりがないかと探したところ、90分テープが入ったテープレコーダーを見つけました。録音されていたのは、母と病院の主治医と親戚の人たちの会話。父は肺がんで余命1年もないと告げられ、本人に告知しないことを話し合っていたのです。
私は病名も知らないふりをして、自分にできることをしようと決めました。父は本当の病名を告げない母に怒りを覚え、ひと言も口をきかず、母の料理に一切手をつけなくなった。母が何を聞いても答えないけれど、私や妹とは話してくれたので、私たちは両親の間で伝言係を務めたのです。
父の「だんまり」は死の直前まで1年半くらい続きました。それでも唯一、家族をつなげていたのは母の料理だったと思います。母の伝言には「パパに何を食べたいか聞いてちょうだい」とか「これができたから病院へ持って行ってね」と父への気遣いがあり、希望を捨てずに料理をつくり続けていたのです。
母は私たちの前で泣いたり、弱音を漏らすこともなかったけれど、その胸に秘めた苦悩も残された日記で知ることになります。あのとき母は40歳。“果たして、今の自分にそれができるだろうか……”と、身につまされる思いでした。
母が残してくれたレシピに家族の原点がある
父亡き後、母はより強くなったような気がします。女一人でも娘たちをしっかり育てなければといろいろ考えていたようで、まずアルバイトを始め、簿記の資格を取って仕事に就きました。私たちにも常に口にしていたのは、「手に職をつけなさい」。私は父の闘病を見ていたので医学の道へ進むつもりでしたが、母に「あなたは手先が器用だし女の子だから、夜勤がない歯科のほうが長続きする」と勧められたのです。大学に合格したときには、「これでママの歯は一生心配ないわ」と喜んでいましたが、それも叶わぬ夢に。
私が大学1年のとき、母は胃がんを宣告され、胃を全摘しました。その際、母は延命治療を望まず日本尊厳死協会に入り、遺書も書いていたそう。退院後は食べられる量が減り、体力も落ちましたが、いつもと同じように私たちのために食事をつくり、変わらぬ日常が続いていました。
手術から2年が過ぎ、「もう大丈夫だね」と話していた直後、母は体調不良を訴えて病院へ行き、いきなり入院することになったのです。検査の結果、脳腫瘍か脳出血の可能性があると診断され、そのまま意識も無くなってしまった。入院からわずか9日後、母は帰らぬ人となったのです。1993年の春、48歳の若さでした。
母の死はあまりにも突然だったので、最初は実感がなくて……。6歳下の妹には母の病名を伝えていなかったので、私自身は妹を支えていくことだけで気持ちも精一杯でした。
やがて私は結婚して家庭を築き、妹も自立して生活できるようになったとき、両親と住んでいた家の建て替えを決心しました。古い家を取り壊す前に荷物を整理していると、母が大切にしていた箱を見つけ、中から出てきたのは大量の手紙とノート。そこには父の闘病中の記録や料理のレシピが書かれていたのです。
その料理は食卓に並んでいたもので、家族の原点がそこにあることを実感しました。今でも無性に食べたくなるのは豚足。台湾ではすぐ市場で買えるけれど、日本へ来た頃はなかなか手に入らず、母は何とか探してずんどう鍋で大量に煮てくれたものです。具がたっぷり入ったチマキは手間がかかるので、伯母や友人も集まって100個くらいつくります。母は台湾の食材も取り寄せて、いつでもおいしい料理を食べさせてくれました。
今、亡き母の年齢を過ぎて思うのは、母は限りなく大きい存在だったということ。私はいまだに母を超えることができません。しなやかな強さ、凛(りん)とした姿、私もそんな女性になれたらと思っています。
1970年、台湾の名家「顔家」長男の父と日本人の母との間に生まれる。日台の懸け橋となる文化交流活動にも力を入れている。著書に『私の箱子』『わたしの台南』『「環島」ぐるっと台湾一周の旅』など。『ママ、ごはんまだ?』は映画化された。