母が残してくれたレシピに家族の原点がある

父亡き後、母はより強くなったような気がします。女一人でも娘たちをしっかり育てなければといろいろ考えていたようで、まずアルバイトを始め、簿記の資格を取って仕事に就きました。私たちにも常に口にしていたのは、「手に職をつけなさい」。私は父の闘病を見ていたので医学の道へ進むつもりでしたが、母に「あなたは手先が器用だし女の子だから、夜勤がない歯科のほうが長続きする」と勧められたのです。大学に合格したときには、「これでママの歯は一生心配ないわ」と喜んでいましたが、それも叶わぬ夢に。

私が大学1年のとき、母は胃がんを宣告され、胃を全摘しました。その際、母は延命治療を望まず日本尊厳死協会に入り、遺書も書いていたそう。退院後は食べられる量が減り、体力も落ちましたが、いつもと同じように私たちのために食事をつくり、変わらぬ日常が続いていました。

手術から2年が過ぎ、「もう大丈夫だね」と話していた直後、母は体調不良を訴えて病院へ行き、いきなり入院することになったのです。検査の結果、脳腫瘍か脳出血の可能性があると診断され、そのまま意識も無くなってしまった。入院からわずか9日後、母は帰らぬ人となったのです。1993年の春、48歳の若さでした。

母の死はあまりにも突然だったので、最初は実感がなくて……。6歳下の妹には母の病名を伝えていなかったので、私自身は妹を支えていくことだけで気持ちも精一杯でした。

(上)母が残したノートには、家族の食卓によく登場した台湾料理と日本料理のレシピが。(下)20歳の誕生日に母から贈られたのは、父が母に初めてプレゼントした真珠のネックレス。今も大事に使っている。

やがて私は結婚して家庭を築き、妹も自立して生活できるようになったとき、両親と住んでいた家の建て替えを決心しました。古い家を取り壊す前に荷物を整理していると、母が大切にしていた箱を見つけ、中から出てきたのは大量の手紙とノート。そこには父の闘病中の記録や料理のレシピが書かれていたのです。

その料理は食卓に並んでいたもので、家族の原点がそこにあることを実感しました。今でも無性に食べたくなるのは豚足。台湾ではすぐ市場で買えるけれど、日本へ来た頃はなかなか手に入らず、母は何とか探してずんどう鍋で大量に煮てくれたものです。具がたっぷり入ったチマキは手間がかかるので、伯母や友人も集まって100個くらいつくります。母は台湾の食材も取り寄せて、いつでもおいしい料理を食べさせてくれました。

今、亡き母の年齢を過ぎて思うのは、母は限りなく大きい存在だったということ。私はいまだに母を超えることができません。しなやかな強さ、凛(りん)とした姿、私もそんな女性になれたらと思っています。

一青妙(ひととたえ)
1970年、台湾の名家「顔家」長男の父と日本人の母との間に生まれる。日台の懸け橋となる文化交流活動にも力を入れている。著書に『私の箱子』『わたしの台南』『「環島」ぐるっと台湾一周の旅』など。『ママ、ごはんまだ?』は映画化された。

構成=歌代幸子 撮影=国府田利光 撮影協力=Rue Favart